野暮天堂

旅は道連れ、世は情け

今を粛々と

新型コロナウィルスの影響が、世間を席巻している。

 

こういう状況になると、「いつも通りに生活できること」がどんなにありがたいかを、身をもって実感する。普通の生活は、普通の人たちが、普通に働いて、生きて、暮らしていないと、成り立たないのだと。ほかの人たちの生活があってはじめて、自分の生活も成り立つ。

 

今後、経済的にもかなり厳しい状況になっていくと思う。世界的に大規模な金融崩壊が起こるという人もいる。そして、その結果として、まるで戦後のような状況になる、とも……恐れすぎてはいけない。でも、然るべき対処はあらかじめとっておく必要があると思う。

 

だからこそ、事前にやっておけることはやっておきたい。政治レベルといえば、消費税の凍結(減税)は不可欠だと思っているし、そのほかの保障も必要だ。とにかく、大きなダメージを負うのは明々白々なのだから、そのダメージが深刻すぎるものにならないよう、手を打っておかないといけない。

 

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正しい情報を仕入れることと、それに振り回されないこと

正直、自分もかなり怖い。将来、今やっている仕事が続けられなくなるんじゃないかと、恐怖している。まあ、そうなったら、自分以外の人間も職を失っているだろう。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」じゃないけど、もうそういう状況になったら、仕事の存続うんぬんなど考えても仕方がないかもしれない。

 

まあ、とにかく怖いので、情報をあまり入れすぎないように気をつけている。自分で選ぶ情報はそれなりに信頼の置けるものだ。そして、その情報発信者は、使命をもって情報を我々に届けてくれている。でも、毎日そういった危機を訴える情報に触れていると、はっきりいって精神的に参ってしまう。自分で言うのもなんだが、かなりナイーブな方なのだ……。

 

こういう時期は本当にむずかしいが、正しい情報を入れて対処をしつつ、でも情報に振り回されないように気をつけることが大事だな、と思う。

 

現在を粛々と生きたい

未来から重たく、分厚く、暗い雲がやってくるような状況。そんな今、どんな姿勢で生きればいいのか、どんな心境で生きればいいのか、折に触れ考えている。

 

今はとにかく、未来に大きな損失があるとしても、できることをやり、対処すべきことは対処し、その上で現在、ここにある時間を粛々と生きていきたいと思っている。未来のために、現在を犠牲にすることもない。現在は現在として、生きないと。

 

その上で、できることをしたいと思う。たとえ、それが実を結ばず、水疱に帰すとしても。

相対性のなかで生きるぼくら

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女優・有村架純のお姉さんが、整形手術を受けてそれを公表したらしい。もともとお姉さんは妹の有村架純さんと自分を比べて、自虐的になることが多かったようだ。テレビで一度見たことがあったが、自分もたしかにそう感じた。

 

人は相対性のなかで生きている。比較されながら生きている部分はたしかにある。ただ、その観点……つまり、ひとからの評価というものを第一にしていると、どうしても振り回されることが多いと思う。それは、ひとの評価というものが一定でなく、さまざまであるからだ。

 

たとえば僕はBUMP OF CHICKENというバンドが好きで、そのボーカルの人にあこがれていたりする。かっこいいなあ、と思っているんだけど、他の人から見たら、そのボーカルはたいしてかっこよくないかもしれない。むしろ、「ちょっと気取っている」とか思われるかもしれない。僕はそれを聞いて「ちがうちがう!ちょっとそういう部分がある気もするけど、それはあくまで表面的なもので、じつはひょうきんなんだよ!」とか言っても、そのひとの観点はそのひとのものだし、変えることは難しいかもしれない。

好みも見方もそれぞれ違って当たり前なのだ。

 

そもそも、「美しい」という感覚もひとそれぞれ、千差万別だ。もしかしたら、有村架純よりもお姉さんの方がかわいいと感じる人もいたかもしれない。

 

じゃあ、どうしたらいいのかっていうと、結局のところ「自分で自分を認められるか」ということになるのだろう。月並みでどこぞの自己啓発本にのっていそうな表現だけど、そういうことなのだと思う。

 

整形をして、「よし、美しくなった」と納得して、周囲からも評価が上がって、まあまあ満足していたとしても、もしかしたらまた「不細工」というひとが目の前に現れるかもしれない。そうしたとき、また「わたしってまだ不細工なのかな」と悩むのだろうか? そうしてまた整形をしてしまうのだろうか。

 

僕はオオイヌノフグリなど、道端に咲く小さな花が好きで、どちらかというとバラなど大きくて派手な花は好みじゃない。そんなだから、女性を見るときも、あんまり派手でゴージャスな格好の人や、目鼻立ちがくっきりしまくっている人は好みじゃない。それよりももっとソフトで自然な方が好みである。

 

でもバラは当然美しいのだし、オオイヌノフグリも当然美しいのだ。バラがオオイヌノフグリを見て、「なんてさりげなくてかわいいんだろう。わたしは派手すぎる」なんて悩んでも仕方ないのだ。逆にオオイヌノフグリがバラを見て、「バラはなんであんなに目立って良い香りがするんだろう。わたしはなんでこんなに地味なんだろう」と嘆いても仕方がない。どちらにもそれぞれの良さがあるのだ。それに自分で気づけていないだけで。

 

もっと広げると、花に生まれなかった岩には岩のうつくしさ、役割があるし、稲に生まれたとしたら、お米が誰かのお腹を満たす。それぞれの役割や美しさ、在り方というものがあって、それをしっかりと受け止めて、自己を認められるかどうか。それがだいじなのではないかと思う。

 

この世の中にはさまざまな物差しがある。「良い・悪い」「美しい・醜い」「かわいい・かわいくない」「かっこいい・ださい」などなど。しかしそれらはすべて相対的であり、なんだったらすごく主観的なものだ。誰かにとってビーナスのように美しく見える人が、誰かにとっては不細工に見えるかもしれない。つまり、どんなものにも良い悪いはなく、ただ周囲の人間が勝手に判断してラベルを貼っているだけ。

 

相対性のなかで生きるぼくらが、ゆるぎない自信を持ちたいのなら、まずは自己をしっかりと認められることがだいじなのだろう。反省の意味も込めて、ここに記す。