野暮天堂

旅は道連れ、世は情け

リアリティ

物語にリアリティがない、ということでその物語を批判する人を見かける。そのたびに、ぴきっと血管が浮き上がる。この人は物語に何を求めているんだ?と。寿司屋に来て、パエリアがないので怒っている客のようだ。どっちも魚介の食材と米を使うけど、提供するものが全く違うだろう。

 

物語にリアリティは確かに必要だ。それは、読者がある程度物語の世界に入り込むための「スパイス」のようなものだ。だが、物語はリアリティだけで構成されるものではない。もしもリアリティ100%が見たいのなら、ただ自分の現実を生きさえすればいいのだ。ドキュメンタリーだって多少の編集が入り、物語の要素が加わるのだから。そもそも、自分の現実にだって、自分で切り取った「物語」が多少なりとも加わるものなのだ。著者の表現したいものが、リアリティを抑え込むからといって、それがなんだというのだ。これは物語なんだぞ?

 

とはいえ、感想は自由か。

思索ノート 対話の方法

先日書いた記事にコメントを寄せていただいた方に、ある本を紹介していただいた。その本をAmazonで検索していたときに、関連本のなかに気になるものがあったので、本屋に行って紹介してもらった本と、気になった本、二冊を買った。

(kameさまありがとうございます。『人びとの自然再生』、徐々に読んでいくつもりです)

 

対話する社会へ (岩波新書)

対話する社会へ (岩波新書)

 

 

『対話する社会へ』という本のなかに、自分が考えている問題に対するひとつの答えが書かれていた。

 

 

homurajin55.hatenablog.com

 以前の記事でも書いたとおり、現在の日本社会の「不寛容さ」にはコミュニケーションを行う場所・機会の少なさが関係しているのではないか、と考えている。共同体というか、そういった「異なる立場の人たちが交流する場所・空間」が少ないから、結局自分の小さな世界、あるいは小さなコミュニティで完結してしまうのではないか。そして、それを打開するためには、シンプルに新しいコミュニケーションの場が必要なのではないか、と思っていた。「異なる人たちが交流する場所」が必要だと。

 

『対話する社会へ』は、経済学者の暉峻淑子が現在の社会から喪われつつある「対話」ついて、いろいろな実例からその必要性を問う、といった内容の本だ。著者は一貫して「対話は必要なものだ」という姿勢であり、僕も同意見だ。

 

本の中ではさまざまな「対話」に関する実例が紹介されるが、とくに僕が注目したのが、「対話」が市民のあいだで生起し、好意的な展開をしていった実例である。

ある講演会に集った市民たちは、その日の講演会のディス・コミュニケーションな内容に不満を持ち、講演会終了後の廊下で意見を交わし始めた。そして、結果として「対話的研究会」といったものが立ち上がった。

 

「対話的研究会」では、報告者が各々関心を持っているテーマを、社会と関わりを考えながら報告する。その報告を受けて、参加者が質問し、討論をおこなう。会則・会費もなし。出入りも自由。

次第に参加者は増え、全く自分とは違った意見を持った人の考えを聞いて驚いたり、自分と近い考えに共感したりと、新鮮な体験を得られる場として、現在も機能しているようだ。

参加者の職種も実にさまざま。ジャーナリスト、介護福祉士、カメラマン、保険会社社員、消費者アドバイザー、大学の先生……。ときには、高校生が参加することもある。

 

この部分を読んでいて「これだ!」と思ったのは言うまでもない。

僕は、「学び舎のようなものがあればいいのでは?」と考えていたが、そんなに壮大に考えることはなくて、自然と集まり自由に対話できる場があれば、それでいいのだとわかった。つまり、気楽さも重要なのだ。そしてなにより大事なのが、生身の対話だ。

 

「対話的研究会」のメリットは、ただ異なる人たちが意見を交わすだけにとどまらず、この体験からさらに外の世界へ行動を広げていく、その土台となる点にある。完全に理解し合えなくとも、対話によるコミュニケーションが可能だということがわかれば、自ら行動を起こす気持ちが湧いてくる。

結果として、社会や政治にも関心を持ち、自分の問題として考え、行動を起こす人間が増える……そんな期待も夢ではない。

 

とにもかくにも、こうして実例を見せられたことで、できることがあるのだということがわかった。こういった機会・場所をもっともっと増やすことができれば、あるいは、日本の社会くらいは、まともなものにできるかもしれない。