頑張る?楽しむ?仕事と料理とプリンセス・プリンシパル
仕事は辛いもの?楽しいもの?
仕事って楽しんじゃいけないもんなのでしょうか?いや、そんなことはないはず。とはいえ、仕事をしている人には、常に面倒なことがつきまとうものですよね。それをどうしていったらよいのか。
それとは別に、「仕事とは辛いものなのだ」という印象が世の中に溢れている気がします。仕事は辛いもの、だから仕事終わりにはお酒を飲んで憂さ晴らし……たしかにそういうことがある場合もあるでしょう。
何事も、楽しんだもの勝ちかなって思っています。僕はどうしても、「頑張る」といった言葉、状態が苦手なのです。「頑張る」という言葉からイメージするのは、忍耐。辛い状況をそのままにしておいて、なお耐えながら進む、といったイメージです。それはそれでいいでしょう。でも、僕はその辛い状況をまず緩和して、方向転換や工夫を加えて、より楽しめるようにしたっていいのではないだろうか、と考えています。
料理は楽しい?
料理が苦手という方が、苦手で辛いまま料理を続けるよりも、工夫を加えて料理を好きになった方が、美味しいものが作れて、しかもストレス発散にもなって一石二鳥だと思うんですよね。
料理を好きになるアイデアはいろいろあります。まず、道具にすこしお金をかけて、良いものを買う。これで、作業が断然楽に、楽しくなります。キッチンを整理整頓しておくことも大事でしょう。さらに、器選び。器は本当に重要で、料理をある程度していたら、「この器にはどんな盛り付けをしようかなあ」などと、ひとりで妄想する楽しみもあります。
最近では、「テーブルコーディネイト」という言葉が流行っています。
こうやって、テーブルの上を自分好みに構成するというのは、けっこう楽しいことでしょう。まあ、もちろん毎日毎日やっていたら疲れそうなので、適度に楽しむ必要がありそうですが。
何が言いたいかというと、こうやってアイデアを出したり、想像力を使って物事に取り組むことで、ただの行為が「楽しい行為」に変化することもあるのではないか、ということです。
仕事を効率的に、楽しく
最近観ているアニメに『プリンセス・プリンシパル』というものがあります。このアニメは、イギリスを舞台に女子高生スパイが活躍するというストーリー。基本的に一話完結で物語は進みます。
働く、といったことについて印象的な回だったのが第七話「case16 Loudly Laundry」。
主人公たちは、ミッションにより、ある洗濯工場に潜入します。そこでなんやかんやあるわけなのですが、結局その洗濯工場のよろしくない労働環境を改善することに。
彼女たちは、ベルトコンベアのメンテナンスをおこない、導線を考えて機器の配置を変えます。
ものすごく強く、体術に長けた日本人の“ちせ”は、労働歌を従業員に教えることで、楽しみながら仕事をすることを促します。結果、いままで1週間かかっていた作業が1日で終わってしまいます。
純利益もV字回復をみせ、前年比の200%越え!
その後、主人公たちは無事にミッションをクリアしました。
仕事を楽しくすることは可能?
上記アニメを観ていて、これはいろいろな仕事にも適用できるかもしれないなあ、と思ったのです。ちゃんと手をかけ、工夫を凝らす。それで結構変わることもあるかと。
もちろん、どんな仕事でも楽しくやれるというわけではありませんよね。やっぱり世の中には辛い仕事というのはあると思います。ただ、工夫次第で楽しくなったり、楽になるのであれば、どんどん手を加えていけばいいんじゃないかなって思います。
というより、自分が仕事を楽しみたいのだけど、ひとりだけ「仕事って楽しい」とか言っていると文句言われそうだなあ……とか考えてしまい、こういう記事を書いてしまったのでした。うーん、日本人的!
仕事は楽しんで良いものでしょうか?良くないものでしょうか?
僕は楽しんでいこうと思っています。
事実ってなに
この世界は事実だけではできていない。無論、事実も並んでいる。しかし、それと同等かそれ以上に、人々の解釈やイメージが世界を作り出しているような気がする。
歴史書は、為政者の思惑によって書かれるという話はよく聞く。すなわち、歴史書に書かれている内容は、幾分か事実で、幾分か歪曲されている。あるいは、恣意的に削除されている。
だが、そんな為政者としての意図などなくとも、僕らは見たいものを見て、見たくないものを見ないのではないか。僕たちは自分の内面にそこまで意識的ではない。何かを見て、「あ、いま自分は対象を限定して見ているな」などとは思わない。私にとっての事実は、疑いもなく私にとっての事実になってしまう。しかし、それは事実なのだろうか……印象という方が正しいのではないだろうか。
都会で夜の空を見たとき、田舎に比べた星の数の少なさに注目する人間には、やはり可視できる星の絶対数しか見ないかもしれない。しかし、都会でも光る、強い光度の星を見つめている人間にとっては、星の数は問題ではない。彼にとっては「どの星がどれだけ見えるのか」が問題なのである。
人は意識によって、目の前の世界の見方までも変えてしまう。
そしてまた、今の時代、事実だけを見つめるよりも、「人々の印象」を見つめる機会が多い。インターネットだ。
情報化社会と言われる。情報過多とも。だが、その情報とはいったい如何なる情報であるのか。
理路整然と万人に説明しうる証拠をともなった事実だけで構成されているものなのか。いや、きっと違う。むしろ、印象によってそれらしく「事実めいた」情報だって、きっと思いのほか流れていることだろう。
しかし、それを元手にして、何かの判断を行う人は多いのだと思う。
僕たちは何を見て、何を見ないのか。何を見せられているのか。
「それそのもの」からいったいいくら離れたものを、「それ」だと認識しているのだろう。