野暮天堂

旅は道連れ、世は情け

他者

 人の生き方はそれぞれ。自分に合った生き方を選び、その生き方に合った場所で生きればいい。お金持ちになりたいなら都会で頑張る。ゆっくり暮らしたいなら田舎で。この世の中で、いろいろな生き方ができるのが一番いいのだ。


 生き方は人間にとって、ひとつの表現でもあると思う。さまざまな価値観に基づいた、さまざまな生き方があることで、異なる見方が生まれる。それが、お互いの人生を豊かにするんだと思う。さらに、社会全体をしなやかにする。


 たった数種類の生き方だけが受け容れられる、狭量な社会は脆弱だ。その価値観や生き方からはじかれた人間は、行き場を失う。ついには、命の活動を終えてしまうかもしれない。そこまでいかなくとも、活き活きとした生命はなりを潜める。


 言うまでもなく、人間社会はその構成員の活動がお互いに影響しあい、循環することで成り立っている。もしも狭い生き方しか許されず、そこから外れた生き方が容認されず、そちら側に属してしまった人間が、苦しみ、その生命活動をかげらせるのだとしたら、それはいずれ社会全体の損失としてあらわれるだろう。


 複雑に編み込まれた籐の椅子が高い強度を誇るように、複雑で深い社会もまたしなやかであると思う。シンプルであることもときとして大事だが、強靭な組織というのは、単純さが幾重にも重なった複雑な形として姿をあらわす。


 人間は互いに協力し合いながら社会を構成してきた。そして、互いを理解するために努力を重ねてきた。その知恵のひとつが言葉である。また、絵画や音楽を通したコミュニケーションによって、感覚を共有してきた。まさしくコミュニケーションというものは、互いの違いから生まれるものだといえるだろう。理解しようとしても理解し尽くせるものではない。だが、その「お互いの距離」が、コミュニケーションを楽しくもする。


 人間は自分とは異なる存在である他者に囲まれて生きている。ときとしてその違いがお互いを傷つける。だが、だからこそ理解しようと思えるのではないだろうか。その痛みは、他者に理解してもらいたいと思う気持ちを由来とするもの。理解してもらったときの喜びは、他者の存在を希求している証。


 不寛容であり続けるということは、問題を先送りにしている状態。自分たちはこんなにも愚かで怠惰であるということを、世界に向けて言っているのと同じこと。


 十割の理解など不可能。むしろ、五割理解できたら上等。そして他者を理解しようとする過程で、自分に対する理解も進む。


 外国で暮らしてみると、考え方が変わるという。まったく異なる生き方や価値観に触れることで、自国に住んでいると気づかない見方が自分のなかに芽生えるからだろう。


 他者は、一番身近な別世界。それぞれの頭と身体のなかに、それぞれの世界がある。だから、他者は近くにいるようで、異なる世界を生きる存在。その他者との交流によって、自分の世界が広がる。自分だけが抱えていた暗い出来事が、他者の言葉で再構築されることによって、印象を変えることがある。気づくことができなかった自分の可能性を、他者の感動が明らかにしてくれることもある。


 世界を豊かに生きるためにも、したたかに、しなやかに生きるためにも、他者を理解しようとすることを続けたい。お互いがお互いをころすことのないように。お互いがお互いを生かすことができるように。

「普通」――既存のストーリー

僕たちの周りにはいろいろなストーリーがある。誰かが敷いたレールの上を歩きたくない、と言う若者がいるが、そんな人たちもいつの間にか誰かが用意したストーリーをなぞるようにして自らを規定していることもあるかもしれない。

 

たとえば誰もが結婚というものを一度は考える。恋愛して、ほどよいところで結婚指輪を相手に渡す。数多あるドラマがなぞる共通項のようなシナリオ。

結婚式のあとは披露宴。だが、その結婚式も披露宴も、ある程度他者の意図的な介在があって成立するものだ。

披露宴でムービーを流す。父親の挨拶で泣く。とりあえず最初はケーキカットで、その光景を撮影するために群がる列席者。すべては用意されたシナリオの一部だ。

そういうシナリオを提供するビジネスがあるということだ。そのビジネスの意図に沿って構成されたイベントに乗っかることもある、ということだ。それを「素晴らしいものだ」とする“普通の観念”もあるということだ。

周りと同じように、とりあえず笑っておこう。とりあえず手を叩いておこう。そしてすべてが終わったら、さっさとネクタイをはずそう。そういう人たちもいてはじめて成り立つイベントもある。

 

だが、そんな「普通」を選ぶことは本当に自分の望みなんだろうか。

成功とはこういうものだ。社会人とはこういうものだ。親とはこういうものだ。

今までの時代のなかで、なんとなく醸成された価値。だが、ある程度の普遍性は帯びる価値。

そういう共通認識をシェアしていると確かに安定する。だが、一方でその共通認識を疑う意識も鈍くなる。

 

緩やかな迎合が、誰かを殺すことだってあるかもしれない。

「当たり前」の狭間で生き埋めになる者たちの声を、「当たり前」な人間が取り沙汰することはない。

 

既存のストーリーをなぞることで安心し、既存のストーリーをなぞらないものを除外する。そうすることで、自らの地盤は固まる。「普通であること」の連携は強まる。そして「普通」のなかにいる自分に安心する。

 

誰かが誰かを殺そうとしても、見て見ぬふりをする。ときにそういった状態が「普通」になることだってある。

 

本当に共有しなければならないのは相対的に浮き上がった共通項ではない。もっと深く、揺るぎのない、誰にとっても真実だと言えるようなものだ。

 

「普通」を意識することは大事かもしれないが、それだけを大事にしていたら、もしかしたらいつの間にか誰かを殺していることさえあるかもしれない。

 

いつの間にか出来上がった「普通」というストーリーに身を任せるときは、ちょっとだけ振り返るようにしたい。