路面電車の復活という記事について
ブログで何を書いたらいいのか分からなくなる時がある。(新しくはじめた企画を進めることができたなくてごめんなさい)
しかし、何かを書きたいと思う。何しろ、書くのが一番好きなのだから。
最近になって、書くことが一番好きだと言うことを自覚した。
音楽をやってみたり、絵を描いてみたりしてきたが、結局文章を書くのが一番自分に適しているようだ。まだまだ未熟だけれども。
何でもいいから書きたい。
ということで、ニュースでも見て何か書いてみようと思った。
というかもう、どうでもいい記事でもどんどん更新しよう。そうしよう。
ヤフーニュースで色々とみていたら、ちょっと面白い記事があった。
路面電車が復活の兆し
記事によれば、富山市で路面電車、というかLRTという交通機関が開通しているらしい。なんでも、これまでの路線電車と違って、バリアフリーで乗りやすく、バスとの乗り換えもしやすくて、随分利用者が増えているらしい。
路面電車……実は一回だけしか乗ったことがない。
道後温泉近くを走る路面電車に一度乗っただけだ。バスのような電車のような不思議な乗り物だった。なんだか味わい深かった気がする。
中心市街地の空洞化という問題
これが一番興味深かった。
浅学なので、地方都市の問題についてはあまり深く知らなかった。人口の流動とか、過疎化とか、そういった問題しか見えていなかったが、今回の記事で中心市街地が空洞化しているという事実を知った。
郊外に大型ショッピングモールができる。あるいは団地ができる。そうすると、人間はどんどんそっちの方へ流れていって、中心市街地に人が集まらなくなってしまう。そうすると当然その場所の経済は停滞してしまう。詳しく知らないので断言はできないが、古くからの商店があるのも中心市街地なのではないか。個人経営の店が消えてしまうのではないかという一抹の不安を覚える。
僕は、個人経営の商店が並んでいる商店街が好きだ。おのおののカラーが際立っていて面白い。チェーン化した商業施設というのはどうしても扱う商品が画一化してしまうものだし、経営上の効率性を重視するから、あんまり売れない商品を置いたりはしないだろう。そうなると、見慣れたものばかりが商品棚に並ぶことになる。それは自然なことなのだが、どうにもつまらない。そう、つまらないのである。
実際に行ったことはないが、いくつか活気のある商店街があるのを知っている。やはり、面白い。テレビで見ただけだが、おでんやさん、にくやさん、魚屋さん、八百屋さん……それぞれ個性があるのだ。当たり前だが。そして、商店街自体が一種のコミュニティーになっているはずだから、人の繋がりが垣間見える。つまり、人間味のようなものがあるのである。
その人間味こそに用がある。特に現代人は。
経済効率ばかり重視した経営……ある意味それは資本主義社会にとってとても自然な経営形態なのかもしれない。しかし、どうにも危うい気がするのだ。きれい事かもしれないが、働くということは誰かに何かをサービスするということだと思う。そしてその対価として賃金が発生する。利益が発生する。本来、人間と人間の繋がりの中に経済は生まれていると思うのだ。だからこそ、本当だったら、お客の顔が見えている方がいいし、売り主の顔が見えている方がいい。しかし、最近の社会ではそういう部分が希薄な気がしてならない。
人のために働くのではなく、ビジネスのためにビジネスしているというような状態。
それは本当に望ましいことなのだろうか。血が通っていないように思えたりする。
働いても働いても蓄積するのは疲労だけ、誰かからの感謝の言葉一つ得られない。そりゃあ、疲れるよ。そんな働き方が一般的になればなるほど疲れると思う。
だからこそ、顔を見ながら経営できる個人商店は面白いと思うのだ。そして、活気のある商店街には「血が通っている」。そんな気がするのだ。生きている実感を得られやすい場所なのだ。そんな個人経営の店が衰退していくのを見るのは、悲しい。寂しい。
LRTによって中心市街地に人が戻ったけど……
LRTによって、富山市の中心市街地の歩行者数は二割増加したらしい。そして今後、その路線沿線に商業施設が作られるという話もあるそうだ。空洞化していた場所に人が戻るのはいいことだ。
しかし、反対意見も根強い。
ある経営者曰く、LRTによって恩恵を受けている実感がない。
ある団体の人間は、LRTができることによって車が走りづらくなり、かえって交通の利便性を欠いてしまうと言っている。
問題もあるだろう。
しかし、たとえば車を運転できない人間はどうしたらいいのか。老人や、駐車場のない住居施設で暮らしている人間はどうしたらいいのか。バスしか利用できなくて、それで不便ではないのか。そういった人間にとって公共交通機関が網の目のように通っているというのはとても便利なことだ。
正直、車は維持費がかかりすぎる。今後、生涯持ちたくないという人間も増えてくるのではないか。
車を持っている人間だけが利便性の高い生活をして、車を持っていない人間との格差が生まれてしまうのは望ましいことではないような気がするのだが、どうだろう。
しかしながら、変化には歪みが生まれるものかもしれない
きっと、いいことばかりではない。
変化には歪みが生じる可能性がある。
どんなに専門家が考え抜いたとしても、現実的な影響は実際に政策なり事業を実行したあとになって立ち現れるのだ。
あるブログの記事を思い出した。
いつも読んでいるブログなのだが、この記事では集落に人を集めようとする施策について書かれている。
このブログの筆者の地元にも、ペンション村だった場所がある。そこを改築して、住宅や別荘として販売することにより、人が集まってくるようになった。
しかし、メリットだけではない。
元々その土地で暮らしていた人間と新しく移り住んできた人間との間で、距離が生まれているというのだ。回覧板を回さないなど、細かな問題が生まれた。結局、独立した地区として自治をおこなうことで問題は沈静化したらしい。
このようなに、変化にともなってどんな影響があるかは、実際に施策を実行してみないと分からない場合もあるのだと思う。机上では色々とメリットを試算できるかもしれない。しかし、やはり人間社会のことだ。どんなリアルな問題が浮き彫りになるか分からない。
結局一進一退なのか
LRTにしても、過疎化した集落の再生にしても、結局考えるだけ考え、あとは実行するしかないのだろう。そして、修正点が出てくればその都度対応していく。そうやってやっていくしかないのだろうと思う。
人間は未熟だ。もっともっと未来を見渡せるようになれば、問題は起こらないかもしれない。でも、自分の未来さえ明確に見渡せる人間は圧倒的に少ないのに、どうして人間集団の未来が見渡せようか。
人間は間違える。そして、そこから学ぶのもまた人間。
少しずつ歩むしかないのだと、最近はそう思う。
一人の人間も、人間集団である社会も。
だから、目くじら立てていると疲れる。どうせ、人間は未熟。社会も未熟。
うまくいかないのがデフォルトなのだ。
そしられて当然、理不尽で当然。愛を持った人間ばかりでないのは明白だから。
ゆがんでいるのが人間社会だから、あんまり期待しないようにしたい。
しかし、少しずつ良くなっていくと信じたいし、そうなるように努力したい。
できるのはできる限り考えることと、書くことくらいだが……。
少しでも、住みやすい世の中になるように今日も歩く。