考える力
常々、この社会に何が大事なのだろうか、何が足りないのだろうか、と考えている。確かに幸せな部分もあるのだが、まだまだ修正すべき点は多いと感じる。変わって欲しい点は多々ある。しかし、最も重要なのはこの国に暮らす人間がもっと考えることではないか、と考えている。経済、政治、文化、環境……考えるべきことはたくさんあるが、それを一部の専門家や政治家に任せていては、いつまで経っても変わらないのではないか。では、どうしたらいいのか。
私は、教育に注目している。教育の質がもっと高くなれば、学問の本質的な面白さに気づき、考えることが辛いことではなく楽しいことなのだと言うことに気づけるのではないか。
教育の問題は色々と叫ばれている。しかし、私が思うに、その問題の根本は単純明快、「学習することがつまらない」ことである。はっきり言って、「つまらない」。これに尽きる。
まだ、学問の扉をくぐっていない者に対して、手を取り足を取り教えるのはいい。しかし、最終的に目指すべきは、個々人が自分で学問の世界を歩くようになることだ。そのときに大事になるのが、本人の好奇心や学問への憧憬。自ら考えることを好んで、進んでやっていくような状態。所詮、小学校から高校までの十二年間で学問のすべてを教えることは不可能。ならば、その魅力だけでも存分に伝えてやってほしいものだ。
私が学生時代に面白いと感じたのは、数学の微分積分と無限級数くらいだった。たまたま予備校の講師が面白い人であり、その人の授業が楽しかったので、面白くなったのではないか、と考えている。その人は人気の講師というわけではなかった。だが、私は好きだった。一方で、人気の講師、つまり評判のいい講師の授業も受けてみたことがあるが、私には合わなかった。つまらなかった。分かりやすいかどうかではない。本質的な面白さを伝えてくれるかどうか、だ。
あるいは浪人生の頃、印象に残っているのは、日本史の授業において、講師自身の体験を語ってくれたとき。彼は小学生の頃、大変残酷な体験をしている。
ある日、学校の行事でピクニックに行くことになった。場所は海の見える丘。おのおの班を組み、七輪を使って調理をする。そんな行事だった。ある一組の班が七輪を忘れてしまった。さて、どうしようと考えて、彼らは海の方へ降り、何かないかと探した。そして、七輪によく似たちょうどいい壺状のものを発見した。
その数分後、パンっという高い音が丘の上に響き渡った。
不発弾。彼らが手にしたのは、戦時使用されていたものが、流れついたものだったのだった。
当然、死傷者が出た。
講師は学級委員長だった。
ある被害者の生徒の通夜か葬式において、彼はクラス代表として参列する。そのとき亡くなった生徒の身体が安置されている部屋に招かれ、家族にこう言われたのだ。
「どうぞ、顔を見てやって下さい」
親御さんが顔にかぶっていた布を取ったとき、彼が見たのは、剣道の面だった。
それを見たとき、彼は吐いてしまったのだ。爆発の衝撃によって、首から上が消失していた。
そんな体験を聞かされて、印象に残らないはずがなかった。彼はそれから、歴史を学ぶことになったのだろう。そして、自分の中にある疑問をずっと抱いたまま、ときに中国に渡って何かを見聞しているようであった。
語るべき何かを持っている人間の話は、どんなに不真面目な人間の耳にも入ってくる。教える側に熱量があれば、それだけ印象に残る授業になる。しかし、学習指導要領だかなんだか知らないが、それが教師の「教える力」を奪っているのだとしたら、まったくもったいないことである。
とにもかくにも、学問や学習に対して、「つまらない」と感じさせる教育をしている時点でなにかズレているとしか思えない。小学校から高校まで十二年間もあるのに、結果「勉強ってつまらないよねえ」などという感想しか抱かせることができないとしたら、それははっきり言って失敗だ。完全に下手くそなのだ。
これだけ教育に時間をかけられる国であるのだから、もっとそれを有効に使いたいものだ。もちろん、それを実行するのは大変難しいことであることは承知している。しかし、今のままでは「考える力」がスポイルされてしまう気がしてならない。運良く素晴らしい教育者に巡り会えた人間だけが、学問の面白さに気づけるというのは勿体ない。まして、点数をとり、進学のため、あるいは就職のためにしか教育施設を使わないというのは、愚の骨頂。
よく「勉強が学生の本分」というが、本質的な学問でもないのに、本分だから勉強しなさいと言われても、生徒の側は困るだろう。面白くもなく、ただ成績において優劣を比べられる代物だとしたら、それを憎む人間がいて当然だと言える。
もっともっと楽しいものなのだと言うことを伝えねばならない。本質的な学問は純粋で、そして面白い。それをもっと伝えていかねばならない。