野暮天堂

旅は道連れ、世は情け

どうしても捨てられない気持ち

 この世の中はどうしようもない。本当にどうしようもない、と落胆してしまうことがある。そんなときはたいてい、自分自身のどうしようもなさは棚に上げている。そういったどうしようもなささえ、心を疲れさせる。

 

 でも、そんな世の中なのに、心を震わせる作品には出会う。

 

 『シン・ゴジラ』という作品がヒットしているらしい。どうやらその内容は現代の日本にあの「ゴジラ」がやってきたら、日本という国はどうやって対応するのか、といった内容らしい。詳しいことは知らないけど、日本の政府やその至らなさも描いているらしい。そして幾ばくかの希望も。

 

 良く聞く言葉。

「もうこの国は終わっているよ」

「だから外に出よう」

「もうどうしようもない」

「老後にそなえろ」

 そんな不平不満が、跋扈しているような時代。

 そうだ。こんな時代だ。こんなに疲れる時代もない。

 

 だけど、そんな中でも、やっぱり、諦めたくないという気持ちが表れる。

 

 『東のエデン』という作品を観た。

 このアニメは、記憶を失った少年が、自分の記憶を取り戻すために行動する物語だ。そして、その過程で彼が「日本を救うためのゲーム」に参加している人間だということが分かる。そして、彼は彼なりの方法で「この国」を救う行動に出る。

 この作品の中では、現代日本のどうしようもなさ、至らなさも表現されている。でも、そんな中でも、戦おうとする人間の姿が描かれている。

 

 この作品は、面白かった。それはただ単に個人の感想だ。

 でも、それと同時に少しだけ、安堵したのだ。

 

 この作品はある程度、ヒットした。

 ということは、もしかしたら、日本人の中に「どうしようもないこの国を、しかしやはり、放っておけない」という感覚があるのではないか、と思った。そう思ったときに、まだ大丈夫かも、と思った。根っこから腐っているわけではないのかもしれない。

 

 どうしようもない。どうしようもないけど、やっぱり放っておけない。

 そんな気持ちが、あるのだとすれば。

 まだ、捨てたものではない。

 

 おそらくは、あまりにも大きい過ちを犯してきた。そして、それが複雑に絡み合い、問題の解決を遅らせている。そもそも、どの問題から解決すべきか。そのリソースはどこにあるのか。それさえ明確でない。

 でも、「どうにかしたい」。

 

 それぞれの人生で感じ取ってきた、「守りたいもの」がきっとあって、だから、なんとかしたいと思っている。でも、現実はそんなに単純には変わってくれないし、勉強するには時間が足りない。労働、子育て、人生設計。汲々とした状態で、それでもなお学び、発信できる人間がどれくらいいようか。

 

 でも、歯がゆくても、どうにかしたいと思っている人間の心は、まだ垣間見える気がする。だからこそ、まだ、ああいった作品は支持されているのではないか。

 

 不満は、安易に政治に対する不満や不信に向かうが、そもそも、そんな政治を作っているのは国民だ。責任がどこに向かうか。単純明快、今まで政治を放っておいた、国民にその責任は帰すべきだ。その尻ぬぐいをするのは、若い世代かも知れない。でも、他にどうにかできる人間がいるか。そんなことまで他国に任せたら、もう本当に属国だ。

 

 どうしようもなくしてしまったのは、自分たちで。

 そしてそれをどうにかできるのも、自分たちだ。

 どうにかできなくなったときに、幕を下ろす役目も、自分たちだ。

 でも、そんな悲しい結末、誰も望んでいない。

 

 だから、面倒なこの時代を、あきらめないで生きるしかない。

 あきらめないで生きたからって、どうにかなるわけでもない。愚かさは、果てしなくて、どこまで行っても足りなくて、結局終わってしまっても、それでも、いい。

 

 結局、人間は自らの内に抱える無知や愚かさと立ち向かうようにできているのかもしれない。その相反する表現の中で、学びは生まれ、積み重なっていくのかもしれない。そういった方法でしか、そういった伝承でしか、人間はバランスを築けないのかも知れない。

 

 大事なものが何かくらい、ほとんどの人間は分かっているのでしょう。

 しかし、具体的にどうしたらいいかは分からない。

 なら、根気よく、学ぶしか無い。

 

 どうしようもないこの社会を、でも、どうしたって捨てられないから、もういっそのこと「あきらめて」、立ち向かう。立ち向かうといったって、その相手は自分たちの中にある愚かさだ。ちゃんちゃらおかしいけど、まずはそこからはじめないと。

 

 どうしても、捨てられないから。