野暮天堂

旅は道連れ、世は情け

自己犠牲とか

最近、だんだん人間が好きになってきた次第。

そこで、自己犠牲というものについて考えた。

 

よく自己犠牲の精神は尊ばれたりするけど、以前から「なぜ、自分のことを他者のために殺さないといけないのか」と考えていた。これは、自己犠牲の定義が間違っていた。

ウィキペディアで調べてみると、自己犠牲とは「他者のために、自己の時間や労力や生命をささげること」とある。この、“ささげること”というところが大事だ。

ささげるという言葉を調べると、「まごころや愛情を示して相手に尽くす」という意味が出てくる。まごころ、愛情。これがキーワードだと思った。

 

そこで自己犠牲のイメージがあったマザー・テレサのことを考えてみる。

 

カルカッタではじまった、貧しいひとたちへの活動が有名だ。

彼女はなにも、自分のことを殺したり、我慢していたりはしていなかったのではないかな。単純に、人間のことが大好きだったのではないかな、と思っている。ものすごく好きなんですよ、きっと、人間が。守りたくて仕方ない。だから、いろいろやった。彼女は自分の中にある動機に、素直に従っただけなんだろう、と。

 

だから自己犠牲を我慢とか、自分を殺して他者に合わせるとか、そういったイメージでとらえるのは、若干本質からずれているように思う。

 

自己犠牲の精神を勘違いのままで尊ぶのもおかしい。

要は、マザー・テレサは「大好きなもののために頑張った人間」だと思うから、「大好きなもののために頑張るのは、あんなに素敵になることもあるよ」くらいは言ってもいいかな、とは思う。

 

そんなこんなで、

「他人のために頑張ることは美しい。だから頑張れ」と、道徳律を振り回すのは、ちょっと乱暴だと思う。抜けてるんですよ。大事なところが。

「他人のことが好きな人間が頑張っているのは美しい、だから頑張ろう」じゃないかな。

まず、他人を好きにならんことには、なんもはじまらん。

 

でも、他人を好きになれっていうのは、超強引ですよね。

だからこういう道徳律っていうのは、押しつけるもんじゃないのかもしれません。

「いつかこうなったらいいよね」くらいの、まあ、目標かな。

 

とかいうことを考えた。

 

 

 

もしや、これ以外にも、言葉の意味を勘違いしていることがまだまだあるのではないか? 

と思って、ちょっと楽しみな毎日。