野暮天堂

旅は道連れ、世は情け

秋はひっそり

秋はひっそりやってきて、いつの間にか去って行く。不思議なやつである。しかし彼らは存在感を残して去って行くのが厄介である。「さんま食べたいなあ」「牡蠣食べたいなあ」……冬や春になって、恋しくなるのはたいてい秋の味覚だったりするのだ。食い道楽にとって、秋というのは見送るには名残惜しい季節である。

 

意識しないと、季節はこっそり過ぎていく。本当は味わい深いものだけど、彼らはただ待つのみだ。彼らは見つけられるのを待っているようだ。道端に落ちたどんぐりや、強烈な匂いを発する銀杏。季節が落とす不思議が、感性を呼び覚ます感覚。

思えば、これほど諸行無常を感じやすい土地柄もないかもしれない。日本という国に住んでいることのありがたみを、ふと感じる。それは歳をとった証拠かもしれない。あるいは、そういう感覚に浸りたいお年頃であり、ただのセンチメンタリズムなのかもしれない。どちらにせよ、この感覚を否定することは無意味でありそうだ。

 

岡潔小林秀雄の本を読んだときの、岡の言葉をふと思い出した。

彼は博物館で、正倉院に納められている布きれをひたすら見つめたことがあるらしい。その後、外へ出て松を見てみると、どの松もいい枝ぶりだと感じる。自分自身の自我というものを落とすと、自然はただただ美しいのではないか。そんなことを言っていた。

ほしいままのものが取れさえすれば、自然は何を見ても美しいのじゃないか。自然をありのままにかきさえすればいいのだ、そのためには、心のほしいままをとってからでなければかけないのだ、そういうふうになっているらしい。

――『人間の建設』岡潔小林秀雄(新潮社)

近所には、そこそこの広さの田園がある。夕日が照らす田畑の風景を眺めていると、本当にただ「美しいなあ」と感じる。そんなとき、本来の美しさとはなんなのか、といったことを考えるきっかけを与えられている感じがする。そのたびに、ちょっと考えてみようとするのだが、やはり目の前の光景の美しさがただただ自然にそこにあり、忘我してしまうのである。

 

 

なぜ、美しいものは美しいのか。この「美しい」は誰が与えたものか。こんなとき、神様というものを意識しないでいられない。だが、同時に神様は人間が都合良く作った存在なのかも知れない、という疑念も湧いてくる。実際のところは何もはっきりしないのに、なんだか本当は自覚しているような、不思議な作用がこの世の中に働いているように思えて、心が宙に浮く。

 

落ち葉を集めて焼いている匂いがしてくる。アルミホイルで包んだサツマイモを焼いて、あついあついと言いながらほおばった記憶はいつのものだったっけ。寒さでかじかむ手と、その逆にほっとした記憶はいつのものだったっけ。その季節にならなければ思い出せない感覚を、いつも僕は思い出す。