野暮天堂

旅は道連れ、世は情け

暮らし

 

 先日『この世界の片隅に』という映画を見て、それでいよいよ「暮らし」というものは大事なのだな、と考えるようになった。しかしどうして、この「暮らし」というやつは、ひっそりとして自己主張しないのだろう。「大事なんだぞ!」と声を大にしてもよいものを。

 

 空気のようなものかもしれない。酸素や窒素がなくなるなんて、誰も露程も思っていない。だが、彼らがふいにそっぽを向いてどこかへ行ってしまったら、我らは漏れなく全滅だ。
 暮らしもそうだ。暮らしは実に多くの素材から成り立っている。衣食住、気遣いという文化、何気なしの会話、暗黙の了解。絶妙なバランスの上に我々の「暮らしという当たり前」は霞のごとく在る。


 その暮らしを形作るものが最近やけに興味深く、いとおしい。
 それと同時に、それらを生み出す職人やサービスなどに注目している。

 

 雑貨などどうだろう。さきほど、ランドマークタワーの一階で、かわいくてほっとするデザインの雑貨が売られていた。
 彼らは自己主張しない。職人はただ作り続ける。寡黙な印象。そこがまたいいのだ。そっと寄り添うように生活に馴染んでくれそうなカップや皿、オブジェ。きっと彼らは生活の一部になり誰かと同じ家庭のなかで同じときを過ごしながら年期を入れるのだろう。そう考えると、よい作品は誰かと時をともにする、と考えてもいいだろう。ほっとした空間の演出や、その時間を形作るひとつの要素として機能する。

 

 出来うる限りほっとして、美しいものに囲まれていた方が、人間は安らぎを覚えるのではないだろうか。その安らぎを作るものは、その人にとってだけ重要なものではないと思う。安定した精神で暮らす人が多ければ多いほど、世の中も安定しそうだからだ。逆に言えば、余裕がない人が増えれば、より争いは増えそうだ。争いとは創造の逆、破壊だ。調和の逆行為だろう。
 ゆえに、暮らしを豊かで調和のとれた安定したものにする要素のあるものは、守らねばならない。やっかいなのは、彼らは本当に自己主張しないのだ。こちらがなくしてはじめて気づかされる。あるいは、気づかずに本当に忘れ去られてしまうか。

 

 便利だからとなくしてきたものが、もしや多くあるのでは?
 なくしたことに気づくにはどうしたらよいだろう。まだ取り戻せるなら、探してみようか。そうしようか。それが歴史を遡る理由になるのかもしれない。