野暮天堂

旅は道連れ、世は情け

忙しさが当たり前になったのはいつか

今、見田宗介の『社会学入門』を読んでいる。

 

社会学入門―人間と社会の未来 (岩波新書)

社会学入門―人間と社会の未来 (岩波新書)

 

 

なかなか面白くて、気になる箇所が複数ある。

 

ある箇所では、見田がインドを旅したとき、いかに日本の「当たり前」が通用しなかったかを語っている。駅構内で2度、「1時間遅れる」と放送があったあと、「今日は運行をとりやめにする」という放送が流れる。当然、見田は驚くのだが、現地のインド人たちは粛然と散らばり去って行く。

 

当時のインドでは、時間がお金と同じように「使われる」ものではなく、「生きる」ものなのだったのである。

 

それに比べて、現代日本人にとっての時間は「Time is money」という訓示に代表されるように、「使うもの」だという意識が強い。実際、忙しく働いていると、分刻みで予定がぎっしりと詰まっていることもある。

しかし、それはあらゆる「人間社会」にとって必ずしも「当たり前」なことではないことがわかる。時代と場所が異なれば、時間に対する感覚はまるで違ったものになるのだ。

 

日本人にとって、どういった感覚を持つのが一番適しているのか、それはわからないが、少なくとも「いまの当たり前」こそがただ正しいというのは、きっと違うのだろうなあ、と思う。どういった社会を生きるかによって、その社会のなかで人々が抱える感覚、価値観さえも変わってくるものなのかもしれない。

 

となれば、やはり一度日本社会を外から眺めてみる機会を設ける必要もあると思った。社会の内側にいては、やはり客観性を持つことは難しいだろう。