野暮天堂

旅は道連れ、世は情け

死んだ言葉が溢れる世界

実は僕は「キモい」という言葉がかなり苦手だ。過去、自分の容姿について自信の持てない時期に(いまも自信はない)、「キモい」と数回言われてかなり傷つき、それ以後「キモい」という言葉が聞こえると、自分のことかもしれないと思うようになってしまった。

 

だが、最近になってどうも若い人たちは「キモい」という言葉をそんなに重い言葉として使っているようではないことがわかってきた。つまり、かなり軽い気持ちで「キモい」「キショい」などと発言することがあるようだ。

 

そこで、ネットで簡単に検索してみると、やはり「キモい」という言葉が世の中にはびこっているという印象を持っている人たちが多いことが分かる。

 

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一つ目のブログで書かれていることは妥当だと思った。すなわち、「キモい」は簡単に使うことができて、しかも感覚的な言葉なので「なんでキモいの?」と反論されても「だってキモいんだもん」で済ませることができる。ある意味では最強の言葉である。しかも、他人と自分を区別して、自分はなにも努力しなくても、相手より上の立場に置くことができる。攻撃力が高い。

 

その浅ましさと醜悪さが、嫌いなんだ。

そして、そんな言葉の使用が低年齢化しているという事実。最近ではうちの母親まで使い始めた。本当にやめて欲しいのだが、とがめることができない。

自分が言われて傷つき、気にしているからかもしれないが、やはり「キモい」という言葉には、本当に残酷なものを感じる。自分と対象に距離を作り、その上で相手を下げる。そして共通の仲間と結託して、相手を孤立させる。そういう人間としての浅ましさ全開の言葉を、みんなが軽々しく使っている。

 

たぶん、相当ひどいところまで来ているのだと思う。それは、いままでの日本社会があまりにも経済効率を優先して、必ずしもお金に繋がらない文化や言葉、そういった人の心を形成する大事なものをないがしろにしてきたからだろう、と考えている。文化や言葉は、自分と他者を繋げるものであり、そして想像力を広げる機会でもある。そういったものが、あまりにも欠如しているのではないか。

灰色の街並みに、灰色の言葉が浮かんでいる。排気ガスを吸って、有害なガスを自らの口からまき散らす。それはもう公害である。