野暮天堂

旅は道連れ、世は情け

事実ってなに

この世界は事実だけではできていない。無論、事実も並んでいる。しかし、それと同等かそれ以上に、人々の解釈やイメージが世界を作り出しているような気がする。

 

歴史書は、為政者の思惑によって書かれるという話はよく聞く。すなわち、歴史書に書かれている内容は、幾分か事実で、幾分か歪曲されている。あるいは、恣意的に削除されている。

 

だが、そんな為政者としての意図などなくとも、僕らは見たいものを見て、見たくないものを見ないのではないか。僕たちは自分の内面にそこまで意識的ではない。何かを見て、「あ、いま自分は対象を限定して見ているな」などとは思わない。私にとっての事実は、疑いもなく私にとっての事実になってしまう。しかし、それは事実なのだろうか……印象という方が正しいのではないだろうか。

 

都会で夜の空を見たとき、田舎に比べた星の数の少なさに注目する人間には、やはり可視できる星の絶対数しか見ないかもしれない。しかし、都会でも光る、強い光度の星を見つめている人間にとっては、星の数は問題ではない。彼にとっては「どの星がどれだけ見えるのか」が問題なのである。

 

人は意識によって、目の前の世界の見方までも変えてしまう。

 

そしてまた、今の時代、事実だけを見つめるよりも、「人々の印象」を見つめる機会が多い。インターネットだ。

 

情報化社会と言われる。情報過多とも。だが、その情報とはいったい如何なる情報であるのか。

理路整然と万人に説明しうる証拠をともなった事実だけで構成されているものなのか。いや、きっと違う。むしろ、印象によってそれらしく「事実めいた」情報だって、きっと思いのほか流れていることだろう。

しかし、それを元手にして、何かの判断を行う人は多いのだと思う。

 

僕たちは何を見て、何を見ないのか。何を見せられているのか。

「それそのもの」からいったいいくら離れたものを、「それ」だと認識しているのだろう。