野暮天堂

旅は道連れ、世は情け

「普通」――既存のストーリー

僕たちの周りにはいろいろなストーリーがある。誰かが敷いたレールの上を歩きたくない、と言う若者がいるが、そんな人たちもいつの間にか誰かが用意したストーリーをなぞるようにして自らを規定していることもあるかもしれない。

 

たとえば誰もが結婚というものを一度は考える。恋愛して、ほどよいところで結婚指輪を相手に渡す。数多あるドラマがなぞる共通項のようなシナリオ。

結婚式のあとは披露宴。だが、その結婚式も披露宴も、ある程度他者の意図的な介在があって成立するものだ。

披露宴でムービーを流す。父親の挨拶で泣く。とりあえず最初はケーキカットで、その光景を撮影するために群がる列席者。すべては用意されたシナリオの一部だ。

そういうシナリオを提供するビジネスがあるということだ。そのビジネスの意図に沿って構成されたイベントに乗っかることもある、ということだ。それを「素晴らしいものだ」とする“普通の観念”もあるということだ。

周りと同じように、とりあえず笑っておこう。とりあえず手を叩いておこう。そしてすべてが終わったら、さっさとネクタイをはずそう。そういう人たちもいてはじめて成り立つイベントもある。

 

だが、そんな「普通」を選ぶことは本当に自分の望みなんだろうか。

成功とはこういうものだ。社会人とはこういうものだ。親とはこういうものだ。

今までの時代のなかで、なんとなく醸成された価値。だが、ある程度の普遍性は帯びる価値。

そういう共通認識をシェアしていると確かに安定する。だが、一方でその共通認識を疑う意識も鈍くなる。

 

緩やかな迎合が、誰かを殺すことだってあるかもしれない。

「当たり前」の狭間で生き埋めになる者たちの声を、「当たり前」な人間が取り沙汰することはない。

 

既存のストーリーをなぞることで安心し、既存のストーリーをなぞらないものを除外する。そうすることで、自らの地盤は固まる。「普通であること」の連携は強まる。そして「普通」のなかにいる自分に安心する。

 

誰かが誰かを殺そうとしても、見て見ぬふりをする。ときにそういった状態が「普通」になることだってある。

 

本当に共有しなければならないのは相対的に浮き上がった共通項ではない。もっと深く、揺るぎのない、誰にとっても真実だと言えるようなものだ。

 

「普通」を意識することは大事かもしれないが、それだけを大事にしていたら、もしかしたらいつの間にか誰かを殺していることさえあるかもしれない。

 

いつの間にか出来上がった「普通」というストーリーに身を任せるときは、ちょっとだけ振り返るようにしたい。