物質と自分の距離
どんなに価格が高く、価値があるとされている調度品も、もとを正せばただの木材や鉄材だったりする。それをデザインしたり、組み立てたりすることで意味が生まれ、「価値」も生まれる。そしてそれが「良いもの」として認知されているのなら、それを持つことにも価値が生まれる。
南青山の問題を見て思った。人間というのは、自らがこさえた「価値」とか「価格」に振り回されがちなのだな、と。たしかに生きる上で、何らかの価値を身につける必要があるときもある。人間には承認欲求があるからだ。本質的に自由であるとはいえ、人間が社会的な動物である以上、他者に受け容れられなければ、その在り方は結果として「自由」ではない。
しかしだからといって、ミニマリストのようにもなりたくない。あれも一種「物質にふり回れている人たち」のように思えるからだ。物質を意識するがあまり、極端なアンチテーゼを体現している。物質そのものは悪でもなんでもなく、それを扱う人間の精神が問題になるべきだろう。
これは「便利になったけど、その分世の中は暗くなった」という見方にも繋がる気がする。たしかに電気が発達、ネットが発達したおかげで、かえって人間の生活は忙しくなった。休みも少なくなった。だが、それはその「便利さ」を人間が上手に扱えていないからだろう。便利が即、不経済を生み出しているのではなく、便利をなんの工夫もなく取り扱ったので、こうなっているのではないか。
自己の反省に活かすべき点
上記のことから思うことは、やはり一番大事にしたいのは精神の持ち方だ、ということ。物質は元を正せばただの「モノ」。そこに人間が附加する「価値」が、いずれ「価格」となる。それに振り回されたくはない。
もちろん、そこに何かしらの価値が生まれることは悪いことではない。それが人間的営みというものであり、文化の源泉でもあるように思えるからだ。要は付き合い方、在り方の問題。人間としてより善い在り方のなかで、上手に物質と付き合う。それが大事なのだと思う。そして、それを成すために、「人間とは何か」「どんな善い生き方があるのか」といったことを知る必要がある。
このことから、人間が人間のことを深く理解することは、必要だとわかる。思想や哲学は絶対に必要だ。それを掴めていないと、いろんなことに振り回される。