野暮天堂

旅は道連れ、世は情け

不寛容社会を作るもの

 ある方のブログを読んで、思ったことがある。

 

 世の中は「不寛容社会」になっているようだ。はみ出した者を激しくバッシングし、糾弾する。あるいは、自分の意見とは反対にある人をすぐに敵だとみなして、攻撃する。実は、僕の中にもそういった傾向があるのだ。最近になって、これはいけない、と思って止めてはいるけど、たまに怒りがふつふつと沸いてしまうこともある。

 

不寛容社会の形成には戦後の経済のあり方が関わっている?

 

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 「不寛容社会」に肝は、「結果主義・成果主義」だと言うことだろうか。私見では、戦後の日本社会が辿ってきた道のりの結果なのだろうなあ、といった印象だ。戦後、どうにか復興するためには、とにかく物質的繁栄を目指す必要があった。そうしないと欧米と対等に渡り合えない。結果として高度経済成長期を経るなどして、日本は物質的に豊かになったはずだ。しかしその後のバブル景気とその崩壊、長らく続くデフレ不況。しかし、その中でも企業は生き残るために必死で生存戦略をとってきた。それが「結果主義・成果主義」なのではないか。

 

 そもそもデフレがなぜ起こっているかと言えば、需給ギャップによるものだと考えるのが一番妥当だと思う。供給に対して需要が不足しているがために、モノやサービスの価格を抑えるしか無く、「薄利多売」に走らざるを得ない。どちらかと言えば、高い価値のものというより、どれだけ生産性を高めつつも人件費などのコストをカットするかという流れになってしまう。それはデフレ期の経営としては至極自然なあり方のように思う。

 

 しかし、実はマクロ経済学的な見方をすると、ちょっとおかしいのだ。上記のような経営は生産性の向上というわけだが、デフレは生産性が高すぎるから起こっているとも言えるので、ますますデフレの傾向を強めることになってしまう。

 よく、日本は駄目だから外に打って出ろとか、生産性が低いから外国と競争してとかいう言説を見かけるのだが、実は日本はものすごく生産性が高いのです。しかも、日本は世界一自国の生産物を他国に売って稼いできた国でもある。それが対外純資産の黒字として、たしか370兆円ほど貯まっているのだ。

 しかし困ったことにそのお金はドルで積み立てられているので、円として日本国内に持ってくることができない。悲しすぎることだ。もって日本人はその恩恵を感じることもなく、相変わらず頑張って働いていく。しかしそれは生産性の向上なので、デフレを加速させる。そして日本の製品は外国で売れ、ドルで黒字が積み重なる。

 なにこれ。

 とにかく生産性が高すぎて不況というおかしな状況がデフレなのだ。

 

 しかし、それで損なわれるものは多い。いわゆるブラック企業というものが台頭し、従業員は人としてというよりは生産のためのコマとして扱われ、残業、すくない休暇などを強いられ、へとへとになる。結果、ろくに人間らしい楽しみを享受することもできず、休日は寝てすごすか、安易に手に入るもので埋め合わせをしようとしたりするのかもしれない。例えばアルコールとか。

 場合によっては資本家や経営者を憎む者もいるかもしれない。ただ、日本の経営者は海外の経営者に比べると、かなり報酬は低め。従業員よりもらっていることは当然だが、海外よりは従業員寄りの考え方をしているのではないか。

 

 とにかく「売れるもの」が重視される世の中になってしまっているようで、そのような世の中では多様な価値というものは生まれにくい。というか、生まれても生き残りにくいと言ったほうがいいか。金にならないものは存続しない。夢物語だと揶揄され、風化する。本当は金になる価値なんて一部のものでしかないと思うのだが……。

 

物質的復興→バブル崩壊→失われた20年……何が足りない?

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 へとへとになりがら働いて、それでも満たされない感じがするのはなぜか。

 もちろんデフレの影響はある。はっきり言って、今の状況では従業員は自分の働きに対する正当な報酬を貰えないのではないかな。いや、一部の人間はちゃんと貰っているかもしれないが、デフレ期に一番先に削られるのは人件費であろうから。だから、働いた分満たされない。

 これは物質面での話。

 

 一方で、心の方はどうか。金や物は、ただ持っていても仕方がない。それをどう使うかが重要であり、自分に合った使い方をするのが満足感を高めることにも繋がりそうだ。しかし、戦後以降、日本社会は本当に「良いお金の使い方」を考えてきたのだろうか。ただただ散在してもむなしいだけ。じゃあ、どうしようって話だが、そのときに重要になってくるのが、「生き方」になってくるのではないか。

 戦後以降、日本社会は物質をどう回していくかということには一所懸命だったかもしれないが、それを使う人間の心には十分に着目してこなかったのではないか。いわゆる精神性とか、それを支える文化とか価値。

 「心」がすこーんと抜けているような気がするのだ。

 それは戦火で根こそぎ焼き払われたのか、それとも徐々に失われていったのか。戦後35年以上経ってから生まれてきた身には、まだ分からない。

 

 結果として、この有様なのではないだろうか。

 座る二宮金次郎像、撤去される公園の遊具、ネットのバッシング、いわゆる「閉塞感」……なんだか、問題の根本を実は僕らは良く知っているのではないか?

 「ん? んんー?」と思うことが多くなったのは、やはり物質のバランスを欠いて、さらに心や精神のバランスを欠いているからではないだろうか。

 

結果主義になりやすい心

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 こんなことを書いている僕の中にも、不寛容は存在する。

「さっさとデフレ脱却しろよ!! 間違ったこと抜かしてんなよ!! そのせいで人が一杯不幸になったり、死んだらお前責任とれんの? 馬鹿!!」

 とか、しょっちゅう心の中で叫んでいた。最近、少し仏教をかじっているので、「怒るのは損だ」ということを実感した。だから最近はあんまり怒らないようにしている。だが、たまに怒ってしまうこともある。

 ある人が言うには、「罪を憎んで人を憎まず」は駄目。もう憎むことそのものが駄目。行為も憎んじゃ駄目。憎むんじゃなくて、慈悲の心で対処する、ということらしい。「なるほど」と思ったので、もう憎むまい、怒るまいと思っている。

 

 でもついつい結果を求めてしまうのだ。

「早くデフレ脱却したら、みんなに余裕が生まれて、余暇の時間でちょっと勉強してみようとか思うかも。そうしたら、もっと複雑な問題にも社会全体で対処できるようになって、政治も機能するようになるかもしれないなあ。だから、喫緊の問題である経済問題をどうにかしたいなあ。早く、早く」

 そう思って何かできないかな、何かできないかな、と考えたが、なかなか良い考えは出てこない。そもそも僕は経済とか政治に適性が無いようにも思える。

 それからしばらくして、「もう得意な人に任せて、僕は自分の適性に合ったことをやることにしよう」と、半ば諦めた感覚を持ってしまった。

 

 どんな問題だって、それ相応の時間はかかる。時間をかけておじゃんになるのは悲しいけど、それもまた人間社会の未熟さゆえなら、憎んでも仕方が無い。

 だから、大好きなこの国で暮らす人々の営みが少しでも報われるようにと祈りながら、自分の領分で頑張ろう、と思っている。

 結果を求めすぎずに、じっくりやっていこう。