野暮天堂

旅は道連れ、世は情け

思考ノート 「当たり前」の錯綜 「不寛容な社会」生成理由をざっぱに推論

今日考えたことのメモです。ただの思考の断片なので、読みたい人だけ読んでください。

f:id:homurajin55:20161122181323j:plain

時代により、人により、環境により、その場その場の「当たり前」は異なる気がする。

最近では、「世代間闘争」なんて言葉もある。ジェネレーションギャップという言葉にも見られるように、世代ごと、職種ごと、性別ごと、まとめて言ってしまえば「ある集団」にとっての当たり前が、別の「ある集団」にとっては当たり前ではない、ということが起こりえるのだと思う。

 

しかし、難しいもので、たいていの人間は「自分にとっての当たり前」を基準にして外部に接続する傾向があると思う。そうなると、どうしてもずれが生じる気がするのだ。

 

たとえば、高度経済成長期にサラリーマンとして日本経済を支えた人たちは、いまの社会を見て、「元気がない」と言い、「やりがいが必要だ」と言うかもしれない。しかし、一方で若者側はデフレによる「先細りの未来が予想される」経済状況のなかで生きている、という事実もある。つまり、そのときどきで状況が異なり、予測される将来性についても差異があるため、なかなか意見が一致しないのかもしれない。

もしも、それぞれがそれぞれの立場について学べたら……と思うが、それはまた難しい。若者が老老介護のつらさを実感できるだろうか。あるいは、子供や孫世代のことを考えながら生活を続ける人たちの事情を100%理解できるだろうか。

あるいは、リタイアした人間が、年功序列の概念がなくなり、また地域・都市における共同体の概念を共有していない若者の事情を十分に把握できているだろうか。

 

現在、見田の『社会学入門』、広井の『コミュニティを問いなおす』、川田の『柳田国男』などをゆっくり同時に読み進めているのだが、なんとなく、現在の「不寛容な」社会を作っているのは、「共同体の喪失」と「物質の流入」が関連している気がする。

これは、ただの仮説だ。

 

社会学入門―人間と社会の未来 (岩波新書)

社会学入門―人間と社会の未来 (岩波新書)

 

 

 

コミュニティを問いなおす―つながり・都市・日本社会の未来 (ちくま新書)
 

 

 

*1" src="https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/41hmg74lzaL._SL160_.jpg" alt="柳田国男: 知と社会構想の全貌 *2" />

柳田国男: 知と社会構想の全貌 *3

 

 

 

日本は高度経済成長期に入るとともに、村落から都市部へ人が大量に移動した。村落は、柳田によれば「氏神信仰」を軸として結びついた集団であり、またその「信仰」が日本人の精神の基底を支えていたようだ。

しかし、時代の趨勢とともに、村落から人間は移動して都市部へ移る。しかし、都市部に移ったのは、もともとは村落の人間であったわけだ。となると、彼らが村落にあったコミュニティのようなものを、都市部に求めた可能性は高い。それが「会社」や「核家族」なのではないか、と。そのようなことが広井の本には書かれていた。

 

①しかし、核家族や会社は「同質的」な集団だったはずだ。比べて、村落におけるコミュニティというのは、世代や性別、(ある程度近接的だとしても)異なる職種の集まりだったかもしれない。(これは、僕のただの予想です)

 

②「同質的」である「会社」や「核家族」においては、「異質なもの」が排除される傾向が強いのではないか。そして、だんだんと異質なものとのコミュニケーションが難しくなっていく……というか、距離があるから、どう接して良いのか分からなくなるのではないか。(これも僕の勝手な予想)

 

③さらに、ここに欧米文化を背景にした「消費文化」が入ってくる。

 

④こうして都市部の人間はより「同質的」になり、異質な他者を受け付けなくなり、トレンドである「消費文化」に迎合する。結果として、他者よりも自己の「物質的有利さ」が尊重されるようになり、利己主義的な傾向が強まるのではないか。

 

⑤ますます人々は個人主義的傾向を強め、自らのテリトリーを守り充実させること(これは“異質な他者”との差別化=優越感の獲得にも繋がるかも)に重きを置き、そして、「不寛容な社会」が作られたのではないか。

f:id:homurajin55:20170612011301j:plain

 

「共同体」が失われたか、弱まったかして、「なにかがあっても、誰かが支えてくれる」という世の中ではなくなった。少なくとも実感としてはそんなかんじではないか。代わりにあるのは、税金を払うことによって得られる「社会保障」である。だからこそ、こんなにもマネーが尊ばれるのではないか。それが命綱になってしまったのではないか。

 

そして、そのマネーを得るためには、働かねばならない。働くと言うことは誰かの役に立つことだ。役に立たないものは金をかせげず、支えてもらえないかもしれない。あるいは、生活保護を受給したとしても、至極肩身の狭い思いをすることになるのだ。だからこそ、「稼げる」という状態か「役に立つ」という状態が、なかば死活問題のように思われているのではないか。そんな折、あの相模原の事件が起こった。「役に立つ」ことだけが人間の価値なのか?そう、世間に問いかける事件だったようにも思える。

 

つまるところ、僕たちは「生身による、年代、性別、職種、政治的イデオロギーetc……をごっちゃまぜにしたコミュニケーションの場を失っている」のではないか。ネットがあるではないか、というが、ネットはユーザーが自分の見たい情報を選択できてしまうものだ。まして、現在は賢いAIやプログラムが、「あなたにおすすめ」の情報を提示してくれるのだ。

つまり、「あちら側から予測なく飛び込んでくるコミュニケーション」はあまり見られないのではないか。でも、そういったものが、もしかしたら必要なのかもしれない。

などと、考えた。

 

つらつらと書きましたが、これはただの「遊び」の検討なので、ご容赦ください。深いになられた方がおられたら、申し訳ありません。