野暮天堂

旅は道連れ、世は情け

思索ノート コミュニケーションの場を作ることに関して

以前、現代の「不寛容な社会」を作り出している原因と経緯はどんなものなのか?といった思索をおこないました。

 

homurajin55.hatenablog.com

 いつも拝読しているブログで、同じような話題を取り扱っていて、自分の考えもあながち外れてはいないかもしれない、と思った次第です。

 

では、この「不寛容な社会」をどうしていったらいいのか?どうしたらもっと暮らしやすくなるのか?ということについて、ちょっと考えてみたいと思います。いろいろな方法があると思いますが、そのうちのひとつだけ。

 

僕は「不寛容な社会」を作っているのは、結局のところ「同質的な集まりのなかだけでコミュニケーションが完結していて、自らの所属集団とは別の集団とのコミュニケーションが図れておらず、お互いを理解することができていない」からではないかと仮想しています。世代、職業、性別などのなかでの対立。あとは右翼や左翼、オタクとリア充、ホワイトカラーとブルーカラーなど、そういった対立軸もあるでしょう。

 

これを解決するには、ものすごく単純に考えれば、「異質なもの同士がコミュニケーションを図る場所や機会があればいい」ということがいえそうです。ものすごくシンプルですが。シンプルすぎますよね。でも、とりあえずこう考えてみました。

 

じゃあ、具体的にはどんな場所ならいいのでしょうか?ということなのですが……。

僕はあまり社会を見通す力がないので、現実的かどうか分からないのですが、たとえば「年齢も職業も性別も関係なく、誰でも入学でき、お互いにいろいろなことを教え合うことができる学び舎」のようなものがあったらどうだろう、と思います。学ぶだけでなく、楽しいイベントなどもあったらどうだろう。カルチャーセンターよりも、もっと大きい規模のもの。

運営はどうしたらいいのか?ということはさておき、もしそういった場所があれば、お互いが知っていることを世代や職業を越えて、教え合うことができ、シェアができるかもしれません。そのなかでコミュニケーションが生まれるのではないか。

理想的には、顔を見ながらのコミュニケーションとネットを介したコミュニケーション、両方が使えるといいかもしれません。

そうして、場所や時間を越えて、コミュニケーションを図ることができたら、どんなにいいだろう、と思います。

 

「学び舎」以外だと、やはり「お祭り」のような、一緒になにかを楽しく作り上げていく、という機会もいいかもしれません。しかし、どうせなら一過性のものではなく、継続的にコミュニケーションがとれた方がいいかな、と思うので、これは効力が弱いかも……。

 

いまは、そんなことを考えています。しかし、もし「学び舎」を作るとしたら多くのお金が必要なので、やはり現実的ではないかな、とも思います。うーん、難しいですね。それに、そういう場所ができたとして、実際に異なる性質のもの同士がコミュニケーションを図ろうとするのか?といった疑問もある。大学なんかでも、結局は同じような人たちと集まる傾向がありましたからねえ。うーん……。

 

なんだか中途半端ですが、いまの僕の思考内容はこんなかんじです。