野暮天堂

旅は道連れ、世は情け

相対性のなかで生きるぼくら

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女優・有村架純のお姉さんが、整形手術を受けてそれを公表したらしい。もともとお姉さんは妹の有村架純さんと自分を比べて、自虐的になることが多かったようだ。テレビで一度見たことがあったが、自分もたしかにそう感じた。

 

人は相対性のなかで生きている。比較されながら生きている部分はたしかにある。ただ、その観点……つまり、ひとからの評価というものを第一にしていると、どうしても振り回されることが多いと思う。それは、ひとの評価というものが一定でなく、さまざまであるからだ。

 

たとえば僕はBUMP OF CHICKENというバンドが好きで、そのボーカルの人にあこがれていたりする。かっこいいなあ、と思っているんだけど、他の人から見たら、そのボーカルはたいしてかっこよくないかもしれない。むしろ、「ちょっと気取っている」とか思われるかもしれない。僕はそれを聞いて「ちがうちがう!ちょっとそういう部分がある気もするけど、それはあくまで表面的なもので、じつはひょうきんなんだよ!」とか言っても、そのひとの観点はそのひとのものだし、変えることは難しいかもしれない。

好みも見方もそれぞれ違って当たり前なのだ。

 

そもそも、「美しい」という感覚もひとそれぞれ、千差万別だ。もしかしたら、有村架純よりもお姉さんの方がかわいいと感じる人もいたかもしれない。

 

じゃあ、どうしたらいいのかっていうと、結局のところ「自分で自分を認められるか」ということになるのだろう。月並みでどこぞの自己啓発本にのっていそうな表現だけど、そういうことなのだと思う。

 

整形をして、「よし、美しくなった」と納得して、周囲からも評価が上がって、まあまあ満足していたとしても、もしかしたらまた「不細工」というひとが目の前に現れるかもしれない。そうしたとき、また「わたしってまだ不細工なのかな」と悩むのだろうか? そうしてまた整形をしてしまうのだろうか。

 

僕はオオイヌノフグリなど、道端に咲く小さな花が好きで、どちらかというとバラなど大きくて派手な花は好みじゃない。そんなだから、女性を見るときも、あんまり派手でゴージャスな格好の人や、目鼻立ちがくっきりしまくっている人は好みじゃない。それよりももっとソフトで自然な方が好みである。

 

でもバラは当然美しいのだし、オオイヌノフグリも当然美しいのだ。バラがオオイヌノフグリを見て、「なんてさりげなくてかわいいんだろう。わたしは派手すぎる」なんて悩んでも仕方ないのだ。逆にオオイヌノフグリがバラを見て、「バラはなんであんなに目立って良い香りがするんだろう。わたしはなんでこんなに地味なんだろう」と嘆いても仕方がない。どちらにもそれぞれの良さがあるのだ。それに自分で気づけていないだけで。

 

もっと広げると、花に生まれなかった岩には岩のうつくしさ、役割があるし、稲に生まれたとしたら、お米が誰かのお腹を満たす。それぞれの役割や美しさ、在り方というものがあって、それをしっかりと受け止めて、自己を認められるかどうか。それがだいじなのではないかと思う。

 

この世の中にはさまざまな物差しがある。「良い・悪い」「美しい・醜い」「かわいい・かわいくない」「かっこいい・ださい」などなど。しかしそれらはすべて相対的であり、なんだったらすごく主観的なものだ。誰かにとってビーナスのように美しく見える人が、誰かにとっては不細工に見えるかもしれない。つまり、どんなものにも良い悪いはなく、ただ周囲の人間が勝手に判断してラベルを貼っているだけ。

 

相対性のなかで生きるぼくらが、ゆるぎない自信を持ちたいのなら、まずは自己をしっかりと認められることがだいじなのだろう。反省の意味も込めて、ここに記す。