野暮天堂

旅は道連れ、世は情け

積極的に光を拾う必要性

最近、『レジリエンス入門』という本を読んでいる。

 

 

この本の中で、人間の脳みそはポジティブなことより、ネガティブなことに2.5倍ほど強く反応する、というようなことが書かれていた。だから、バランスを保つためには最低でも3倍は意識的にポジティブにならないといけないらしい。

 

この前提に立つと、ネガティブなニュースをひとつ見たら、ポジティブなニュースを三個見ないといけないことになりそうだ。これはなかなか大変である。

 

今も昔も、報道機関が伝えるニュースは,基本的にネガティブな情報を含むものである。それが報道の基本的な姿勢なのだろう、と思う。ポジティブな情報を伝えるのは、バラエティ番組の役目、と言われたら「まあ、そうかな」と頷いてしまえそうだ。

 

テレビだけでなくネットでも、暗い話題の方が多い印象だ。そして、ネットの世界ではネガティブなコメントが乱舞する。

 

このような状況で、ただただテレビやネットの情報に自分の心をさらしていたら、そりゃネガティブな気持ちになるし、世の中全体の個人的印象も暗いものになってしまうだろうな。だって、人間の脳みそはネガティブなことにより強く反応するのだから。

 

人間関係でもそうだと思うけど、一度相手にできた印象ってのはそうそう簡単には変えられない。そして、その印象を前提にして、フィルターのようなものを通して相手を見るから、「やっぱり悪い奴」「やっぱりいい人」など勝手に自分の印象を肯定するような情報を集めてしまいがち。

そんなことが、もしかしたら世の中に対しても行われているのかなあ、と思う。

 

実際、今の世の中に対して、「いい世の中ですよ!」という人はほとんどいない、と思う。一部、過去に比べて「いい時代になった」という言う人もいるかもしれないけど、世の中全体を考えたら多くの人が、「やっぱり暗い」と言うのではないかな。

 

でも、そういった「暗い印象」で世の中を見ていると、もしかしたら見過ごしてしまうこともあるのではないかなあ、と思う。世の中の明るい側面を。

 

上記のように、人間の脳みそはネガティブな情報に反応してしまいがちなのだ。そして、今のメディアは積極的にネガティブな情報の方を積極的に発信する。まあ、その方が金になるんだろうな。

 

でも、それだとみんなの元気がなくなってしまう。ネガティブな情報を見て、元気になる人っていうのは少なくて、大抵の人間がため息の材料にしてしまう。

元気がなくなるのは良くない。しかも、それは勝手な思い込みのようなもの(印象)によるものなのかもしれないのだから。

 

だからこそ、積極的に世の中の明るい情報を拾う必要もあるのかな、と思う。そのなかには、世の中を本当の意味で明るくするアイデアだってあるのかもしれないのだから。

 

まずはもっともっと光の部分を見る習慣を持ったっていいのではないかな。

言葉が作るまぼろし

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原田マハの『生きるぼくら』という本を読んでいたら、登場人物が「勝ち組」「負け組」という言葉を使っていた。そして、その価値観にがんじがらめになり苦しんでいた。

 

それを読んでいたら、そういえば最近あまり「勝ち組」「負け組」という言葉を見なくなったなあ、と思った。自分が接する媒体が変わったのかどうなのか分からないが、昔ほど見ない印象だ。

 

僕はあれらの言葉が大っ嫌いだったので、まあ何の問題もないのだが、どうして見なくなったのかなあ、と思う。一時期は、ある一定の人間の価値観として君臨していたような気がするのだが……。

 

そもそも勝ち負けがあるということは、誰かが誰かと争っているということだ。でも、僕は自分にも彼らにも本当には敵なんていないだろう、と思っていた。レースをしているわけでもなし。殴り合っているわけでもない。でも、もしかしたらそう錯覚させてしまう力があれらの言葉にあったのかな、と思う。

 

価値観として確立されるほどに、ある言葉は社会の輪郭を切り取る。

僕の印象では、「勝ち組」とかいう言葉が見られ出したのは小泉内閣の時代あたりだったような気がする。「勝ち組」「負け組」とセットになっていたのが「自己責任」という言葉だった。僕の目と耳には、どちらも薄ら寒い言葉として無機質に映った。

 

あれらの言葉が出来てから、たしかにこの世の中にはそういった区別の方法もありうることは分かった。だが、あえてそんなカテゴリーを作るのはどうしてなのだろう、と思った。なんだか悲しくて、寒々しい言葉の響きだなあ、と。

 

そうして、作られた言葉が若者の価値観を一定期間縛ったように思われる。まあ、そんな価値観に左右されているようでは、「けしからん!」のかもしれないけど。でも、なにもかもあやふやに見える世の中で、じゃあどうやって生きていったらいいのか、それを明確に教示できる大人がいなかったのも確かだろう。なぜなら、彼らも迷い、右往左往していたのだから。

そんな中で、あやふやにだとしても流行っている価値観を……ただ多数の人間が口任せに吐き散らす言葉が作り出したまぼろしだったとしても、一応人生の「定規」として使わざる得ない若者もいたのかもしれない。

 

言葉は便利だが、それ以上に時として人生を縛り付けるものにもなり得る。少なくとも、言葉が作り出すまぼろしに惑わされないようにしたい、と思った。