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野暮天堂

旅は道連れ、世は情け

言葉が作るまぼろし

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原田マハの『生きるぼくら』という本を読んでいたら、登場人物が「勝ち組」「負け組」という言葉を使っていた。そして、その価値観にがんじがらめになり苦しんでいた。

 

それを読んでいたら、そういえば最近あまり「勝ち組」「負け組」という言葉を見なくなったなあ、と思った。自分が接する媒体が変わったのかどうなのか分からないが、昔ほど見ない印象だ。

 

僕はあれらの言葉が大っ嫌いだったので、まあ何の問題もないのだが、どうして見なくなったのかなあ、と思う。一時期は、ある一定の人間の価値観として君臨していたような気がするのだが……。

 

そもそも勝ち負けがあるということは、誰かが誰かと争っているということだ。でも、僕は自分にも彼らにも本当には敵なんていないだろう、と思っていた。レースをしているわけでもなし。殴り合っているわけでもない。でも、もしかしたらそう錯覚させてしまう力があれらの言葉にあったのかな、と思う。

 

価値観として確立されるほどに、ある言葉は社会の輪郭を切り取る。

僕の印象では、「勝ち組」とかいう言葉が見られ出したのは小泉内閣の時代あたりだったような気がする。「勝ち組」「負け組」とセットになっていたのが「自己責任」という言葉だった。僕の目と耳には、どちらも薄ら寒い言葉として無機質に映った。

 

あれらの言葉が出来てから、たしかにこの世の中にはそういった区別の方法もありうることは分かった。だが、あえてそんなカテゴリーを作るのはどうしてなのだろう、と思った。なんだか悲しくて、寒々しい言葉の響きだなあ、と。

 

そうして、作られた言葉が若者の価値観を一定期間縛ったように思われる。まあ、そんな価値観に左右されているようでは、「けしからん!」のかもしれないけど。でも、なにもかもあやふやに見える世の中で、じゃあどうやって生きていったらいいのか、それを明確に教示できる大人がいなかったのも確かだろう。なぜなら、彼らも迷い、右往左往していたのだから。

そんな中で、あやふやにだとしても流行っている価値観を……ただ多数の人間が口任せに吐き散らす言葉が作り出したまぼろしだったとしても、一応人生の「定規」として使わざる得ない若者もいたのかもしれない。

 

言葉は便利だが、それ以上に時として人生を縛り付けるものにもなり得る。少なくとも、言葉が作り出すまぼろしに惑わされないようにしたい、と思った。