お金はめぐる
2020年開催の東京五輪について、ボランティアの問題が浮上している。ボランティアというわりには条件が厳しかったりするらしい。
ただ、ボランティアの問題が出ると、どうしても過去の新国立競技場に関するお金のニュースが頭の上にのぼる。あのときも散々ニュースでは「お金がかかりすぎだ」と言っていたが、一転、ボランティアの問題になると、「無償はけしからん」といった世論が流れている。
新国立競技場にはお金を莫大にかけるべきではない、しかし、ボランティアには交通費くらい出すべき……というのは、どこかちぐはぐな印象がある。
僕は新国立競技場の問題が浮上したときに、「どうしてお金を使うべきところで惜しむのだろう」と考えていた。どうも日本人は、国家や自治体など公的機関・団体がお金を使うのを嫌っているらしいな、と。これも公共投資を嫌悪するのと同じ流れかなあ、なんて。
国や自治体が使うお金の大部分は税金だと思うけど、そのお金は建設に携わるさまざまな企業に流れる。誰かの給料になって、誰かの支出になる。その支出はまた誰かの収入になって、将来の支出になる。税金なり国債なりのお金だって、ちゃんと世の中をめぐるのだ。そしてその流れのなかの「消費」や「所得」の部分には当然「消費税」や「所得税」がつき、それが国家に入って、また歳出になる。
めぐる~めぐる~よ、お金はめぐる~、だ。
新国立競技場の建設費について心配している人だって、そこで使われるお金がすぐさま消えてなくなるとは思っていないと思うのだが……。どうも、経済に関するイメージにかたよりがある気がする。
なによりオリンピックというのは一大商業イベントであるわけだし、使うべきところでは使っていった方がいいのだと思うのだが……。ボランティアにせよ、新国立競技場にせよ。
今一度、国民みんなで経済の仕組みについてじっくり理解する必要があるのかな、なんて思ったりした。
「最近の若者は」
「最近の若者は」という言葉がある。いわゆる年配者が頼りない若者を見て放つ言葉である。この言葉はなんでも相当古い時代からあったらしく、いまに始まったことではない。
「最近の若者は」。この言葉が放たれる背後の気持ちは分かる。たしかにあまりにもものを知らない、ものの道理を知らない、ふがいない……そんな印象を抱けば不安にもなり、なにか言ってやりたいという気持ちになるだろう。だが、年配者の側も失念していることがある。彼ら若者は、年配者が作った社会や文化のなかで生きて、育ってきたということだ。
人の気持ちがわからない、礼儀を知らない……たしかにそういう部分はあるかもしれない。だが、彼らには学ぶ力がある。ただ、彼らが学ぶ対象として向き合っているのはいつだって大人が作り出している社会だ。そのなかで彼らなりにものを見て、考えて、生きている。彼らがもし冷酷で、打算的で、非積極的で、個人主義的なのだとしたら……大人が作り出した社会もまた、そういったものだということだ。いかに過去の煌めきに浸って「心は」あの頃のままだったとしても、行為の結果は今の社会に現れている。
「最近の若者は」という言葉を吐きたくなるときは、一呼吸置いて「最近の若者が生きる社会を作ったのは」と考えるといいかもしれない。いつの時代も子供や若者は、その社会で必死に生きているだけだ。
もしも最近の若者がふがいないのだとすれば、その若者の生育環境――社会を作り出した自分たちの責任についても同時に振り返るべきだろう。
そしてまた、責任をとれる大人だからこそできることもあるだろう。場合によっては互いの背中を任せ合い、現実と向き合い、なにかを作り出すこともできるかもしれない。