野暮天堂

旅は道連れ、世は情け

「あたりまえ」という茨を歩く

みんながシェアしているように思われる「あたりまえ」。「ふつう」「一般的」とも言う。ときとしてその「あたりまえ」が、誰かを苦しめることもある。

 

その「あたりまえ」はどのようにして生まれるんだろうと考えた。たぶんそれは、社会に生きる人々が、無意識的に社会からくみ取っているものなのではないだろうか、と思う。いい歳になったら恋をして、適当なところで結婚して、子供を産んで育てる。働いて税金を納める。それはきっと、各構成員がそういう筋書きで生きてくれた方が、社会が存続しやすいからかもしれない。単純に、社会からの要請を、素直に受け取っているのかもしれない。

 

それに「あたりまえ」は、ある意味では有用なのだと思う。一種のモデルタイプである「あたりまえ」な生き方があることで、カオスすぎる社会になることを避けられる……気がする。本当のところは分からない。

 

「あたりまえ」が真理に基づいているかどうかってのは、ときとしてどうでも良いことである。真理でないこともみんなでシェアすれば真実になる。かつてこの世界では、天動説が信じられていた。真理でないことも、みんなで信じれば真実になる。

 

社会の構成員たる人間にとっては、ときとして真理よりも「みんながシェアしていること」が大事になることもある。社会のなかで生きる人間にとって、社会の構成員として安寧に生きることはとても大事なことだ。それが真理を訴えることより重要になることもある。それを小さい生き方とは思わない。悪い生き方とは思わない。ただ、最も正しい生き方だとも思わない。

 

できるだけ安心して暮らしたい。その想いが「あたりまえ」を作り出すのかもしれない。だけどそれが、人間を苦しめることもある。人間は人間であるがゆえに、自分で自分に呪縛をかけている気がする。

 

だからといって、その「あたりまえ」から抜け出すことが、素晴らしいことだとも思わない。ただそうすることは人の勝手だと思う。誰もとがめられない。でも人間が社会を構成する以上、そこから抜け出して生きることは、多くの場合痛みをともなう。

 

ある自民党員の発言が問題になったのは記憶に新しいが、彼女のことをバッシングしている人のなかには、彼女と同じ感覚を持っている人も一定割合いたんじゃないかと思う。そして、彼女のなかに自分が抱える冷酷さを見て、彼女をバッシングし、「自分はそうではない」と思おうとする。

 

もとより「多様な価値観を認めよう」とか「個性を認めよう」という声が現在の社会のなかで大きいのは、実際のところはそういう状況ではない、ということの裏返し。そうじゃないから、そうなるべきだと叫ぶんだ。つまり社会は相変わらず各構成員に「あたりまえ」であることを要請しているということだ。社会がそう言っていないのだとしたら、社会のなかで生きている人間が勝手にくみ取ってそう思っているということ。どちらにせよ、すこし歪んでいる気がする。

 

誰が悪いわけでもない。だけど、ときとして「あたりまえ」とか「正義」ってのが、パワーとして誰かをおさえつけ、傷つける場合もある。「あたりまえ」や「正義」を振りかざす人間は、たいていマジョリティーサイドにいるので、無批判にそういった力を他者に振り下ろすことが多い。「自分はあたりまえのことをしている」「自分は大多数の人間の気持ちを代弁している」から。だからけっこう自分のしていることに無自覚だったり、無批判だったりする。そして一年後には自分が誰かに無慈悲な鉄槌を振り下ろしていたことを、忘れていたりする。そのときどきのニュースに夢中になって……。

 

やっぱり人間社会ってのは、難儀だよなあ、と思う。かくいう自分も、世間一般の「本流」からは外れた生き方をしている自覚があるから、なおさら。でも「あたりまえじゃない自分」を感じて苦しむのは、結局、「あたりまえでいる方が楽だ」と感じているからだろう。結局自分も、社会の構成員として、みんなに認められたいんだ。もっと言えば「ほとんどのひとに認められやすい」人間でありたい。だから、「本流」な生き方をしている(と勝手にこちらが思っている)人間が、キラキラしているように見える。そして、心のどこかで自分がそうではない、ということをしっかりと自覚している。普段は楽しく笑いながら生きているけど、ふと夜中に目覚めたときに、心がしくしくするのは、そういうことも原因になっていると思う。

 

でも、そういう生きづらさは、べつに全部ゼロにしなくてもいいとも思う。むしろ、それと一緒に生きる、くらいでいいんじゃないか。誰だって瑕疵のある人生を生きている。そういう意味では、自分も他人も同じ。生きづらさを抱えながら生きる存在。

 

ひとまずは相変わらず生きづらい世の中を、下手くそなりに歩いてみよう、という気分だ。ときどきひっそり泣きべそかくこともあるけれど。

 

 

他者

 人の生き方はそれぞれ。自分に合った生き方を選び、その生き方に合った場所で生きればいい。お金持ちになりたいなら都会で頑張る。ゆっくり暮らしたいなら田舎で。この世の中で、いろいろな生き方ができるのが一番いいのだ。


 生き方は人間にとって、ひとつの表現でもあると思う。さまざまな価値観に基づいた、さまざまな生き方があることで、異なる見方が生まれる。それが、お互いの人生を豊かにするんだと思う。さらに、社会全体をしなやかにする。


 たった数種類の生き方だけが受け容れられる、狭量な社会は脆弱だ。その価値観や生き方からはじかれた人間は、行き場を失う。ついには、命の活動を終えてしまうかもしれない。そこまでいかなくとも、活き活きとした生命はなりを潜める。


 言うまでもなく、人間社会はその構成員の活動がお互いに影響しあい、循環することで成り立っている。もしも狭い生き方しか許されず、そこから外れた生き方が容認されず、そちら側に属してしまった人間が、苦しみ、その生命活動をかげらせるのだとしたら、それはいずれ社会全体の損失としてあらわれるだろう。


 複雑に編み込まれた籐の椅子が高い強度を誇るように、複雑で深い社会もまたしなやかであると思う。シンプルであることもときとして大事だが、強靭な組織というのは、単純さが幾重にも重なった複雑な形として姿をあらわす。


 人間は互いに協力し合いながら社会を構成してきた。そして、互いを理解するために努力を重ねてきた。その知恵のひとつが言葉である。また、絵画や音楽を通したコミュニケーションによって、感覚を共有してきた。まさしくコミュニケーションというものは、互いの違いから生まれるものだといえるだろう。理解しようとしても理解し尽くせるものではない。だが、その「お互いの距離」が、コミュニケーションを楽しくもする。


 人間は自分とは異なる存在である他者に囲まれて生きている。ときとしてその違いがお互いを傷つける。だが、だからこそ理解しようと思えるのではないだろうか。その痛みは、他者に理解してもらいたいと思う気持ちを由来とするもの。理解してもらったときの喜びは、他者の存在を希求している証。


 不寛容であり続けるということは、問題を先送りにしている状態。自分たちはこんなにも愚かで怠惰であるということを、世界に向けて言っているのと同じこと。


 十割の理解など不可能。むしろ、五割理解できたら上等。そして他者を理解しようとする過程で、自分に対する理解も進む。


 外国で暮らしてみると、考え方が変わるという。まったく異なる生き方や価値観に触れることで、自国に住んでいると気づかない見方が自分のなかに芽生えるからだろう。


 他者は、一番身近な別世界。それぞれの頭と身体のなかに、それぞれの世界がある。だから、他者は近くにいるようで、異なる世界を生きる存在。その他者との交流によって、自分の世界が広がる。自分だけが抱えていた暗い出来事が、他者の言葉で再構築されることによって、印象を変えることがある。気づくことができなかった自分の可能性を、他者の感動が明らかにしてくれることもある。


 世界を豊かに生きるためにも、したたかに、しなやかに生きるためにも、他者を理解しようとすることを続けたい。お互いがお互いをころすことのないように。お互いがお互いを生かすことができるように。