野暮天堂

旅は道連れ、世は情け

人に優しくすること

 

ふと、思い出した。

何年か前の年始のこと。

 

いつも行く近所の神社で初詣を済ませた。

元旦では無かった気がする。一月三日とかそこいらへんだ。

 

参拝をすませ、境内で焚かれている火に当たっていると、男性に声をかけられた。

「写真、とってもらってもいいですか?」

僕は「はい」と頷いた。

 

どうやら祖父母も含めた団体さんだ。

確か、十人くらいはいたかしら。

 

初めて扱うデジカメにしどろもどろになりながらも、シャッターを押す。

「はい、チーズ」

気の利いた文句を放つこともできず、少しくぐもった声で家族をこちらを向かせた。

おそらく、なかなかいい笑顔が撮れたのではないのではないかと思う。

男性にカメラを返すとき、うまく撮れていたのか心配になったのを覚えている。

年始の時間の思い出を、ちゃんとした形で残せなかったら残念だ。

 

「ありがとうございました」

男性はそう言ったが、こちらこそって感じだった。

年始からいいもの見させてもらった。

年始にはそこはかとない平和感が漂う。

こたつに入って餅食って、駅伝見ながら昼寝する。最高だ。

その平和な時間の一端を、俺に担わせてくれてありがとう。

 

まあ、あれだ。これは幸せのおすそわけというやつだったのだ。

あのときは、

「ああ、年始に一ついいことしたなあ。今年はいいことありそうだ」

などと思ったが、むしろ僕の方が彼らからいいものを貰ったのだった。

 

今年は神社の階段を上れずにいる男性に手を貸した。

何気ないことだが、毎年こんなことがあるような気がする。

「いいことしたなあ」

と、思わせるようなこと。

 

でも、それはある意味「与えられている」ことなのかも知れない。

 

相手を思いやる気持ちというのは、自分のことも癒やす。

「自分は人に親切をすることができるんだ」という実感は、少しだけ自分に自信をもたらす。人に親切にして悪い気はしないと、よく言う。

 

人に親切にすることに臆病になってしまうこと

 

年始だからこそ、少し朗らかな気分がそうさせたのかもしれないが、普段から積極的に人に親切にできるわけではない。

 

見知らぬ人に関わるというのは少し勇気のいることだ。

 

もしかしたら、臆病になっているのかもしれない。

人と関わることに。

それは僕だけではない。

 

本当は優しくしたくても、なかなか一歩を踏み出すことのできない人もいると思う。

もちろん自然と相手に手を差しのばすことができる人間もいるけど。

 

人に優しくなるのには、勇気がいる。

吉野弘の詩を思い出した。

 

夕焼け:吉野弘

 

吉野弘詩集 (ハルキ文庫)

 

 

 

優しさは人を強くするかも知れない

 

なんだか、ちょっとくさいか。

でも、割と言い得て妙なんじゃないか?

 

人に優しくすることで、ちょっとだけ自分を信頼できる。

臆病にならず、不器用に歩み寄る。

最初はうまくいかなくていい。

少しずつ自然になるだろう。

 

何回か重ねているうちに、自分の中に尊厳とやらが生まれてくる気がする。

 

あまりにも肌寒い世の中だ。

放っておけば、自己を否定するような情報に翻弄され、嘆きたくなってしまうことも多いのではないか。

そんな時代だからこそ、自分に尊厳を与えてやることが重要なのではないか。

 

ありがとう、と言うだけでもいいかも知れない

 

コンビニで何かを買ったときに「ありがとう」

飲食店で「ごちそうさま」

 

その言葉に対して、何割かの人間は笑顔を返してくれるだろう。

その関係性で自己を肯定することも出来るかも知れない。

小さな積み重ねだけど、満ちるものはある気がする。

 

「人間」と書くだけあって、人は人と関わって初めて「自己」を認識する。

他者との関係性の中で自分を否定されたり、肯定されたりするわけだ。

ならば、いい関係性を多く持っている人間ほど自分に対して肯定感を持っている可能性が高まるのではないだろうか。

 

少しだけ「いい関係性」を目指す

 

少しだけでいいので、自分からいい関係性を作っていってはどうか。

「深くて」いい関係など作る必要はないから。

 

ちょっと感謝の気持ちを表してみる。

ちょっと笑顔を見せてみる。

それだけでも大分違うかもしれない。

 

人間関係が希薄になったと言われる昨今だからこそ、逆にこの手段は有効なのかもしれない。