批判精神は役に立つのか?
生きていて、常々考えることがあります。
怒りとは必要なものか?
批判は必要なものか?
世の中至らないことばかりで、放っておくと、ついつい批判精神がめきめきと育ってしまう。大人になればなるほど、「自分は正しいのだ」という気持ちが強くなり、批判精神が前面に出てしまうこともある。しかし、それは果たして本当の意味で健全な状態なのだろうか。そう考えてしまいます。
デメリット。
誰かを批判しているときは、一種ハイな気分になるのですが、それを対外的に排出すれば、おそらく多くの他者は良い心象を抱かない。
さらに、実際的に攻撃をすれば、その人間からは恨まれてしまうかもしれません。その場の空気も悪くなり、収拾がつかなくなることさえある。
メリット。
人間は間違えてしまう生き物ですから、その間違いに対して警告を与える。あるいは、気づかせる役割はあると思います。
つまり、「感情的に批判する」ことが駄目なわけで、冷静に自身の感情を交えずに批判することは、もしかしたら建設的なのではなかろうか。そう考えてみます。
愛情とやつが、このときにも大事になってきそうです。
二十五歳くらいから、政治に関心を抱き、いろいろな情報を集めては、時の政治家などを心の中でこきおろしてきました。その背後には、正当だと思われる論理が存在していたはずでした。
具体的には都構想などを実施しようとして政治家や、人口減でデフレ論を展開した学者なども、こきおろしてきた。
しかしそれがなんになったのか?
心はめきめき批判精神で燃えていて、相手を論駁する自分自身を想像してニタニタと笑っていた。その姿は……醜い。美しくない。エコでもない。エゴですな。
建設的でないのです。
どうしても批判しなければならない場合は、自己を主張するのではなく、むしろ相手を労る気持ちを働かせてなんぼなのかもしれません。そうしないと、健康的ではない。建設的ではない。もって、火種が拡大するしかなくなり、結局損をするのは自分自身ということになりえる。
ただの攻撃は、やはり役に立たない。
もっと創造的でないといけない。
今書いていて、そう思いました。