野暮天堂

旅は道連れ、世は情け

 心は器のようなものかもしれない、とふと思った。

 

 僕は、料理をすることが好きで、器を見るのもすきだ。器には様々な形と種類があり、深いものや浅いものがあるが、それぞれに役割もある。この皿にはあんな料理を盛り付けてみたい。この鉢にはこんなつまみを盛り付けてみたい。きった楽しいだろう、と眺めるのが楽しい。

 

 世の中には怒りも、憎しみも、ねたみも在る。だが、それはそれでいいのだ。ときに人の心の器には、それらが盛り付けられることがあり、でもどうにも居心地が悪く、自分も他者も敬遠することがある。でもそれらは、やっぱり人間の素直な感情のように思う。ただ、それはそれとしても、うつくしくないものではある。

 一方で、優しさや穏やかさが宿る場合もある。そんなときは、器自体が喜んでいるようだ。こんなとき、それらの感情は主張することなく、ただたたずむだけでいとおしく、うつくしい。器に盛られたそれらの料理は、ただ召されることを待っている。ひっそりと、でも存在はあり、おいしそうだ。

 元気や陽気さもある。思慮深さや真心がある。

 それぞれの器には、ふさわしい材料があるのかもしれない。そのときどきで、盛られる食材が違う。自分の器にふさわしくないものを盛ろうとすると、どうにも気分が悪い。器に盛った、感情や感覚を素直に表現すればよいのではないかな、と考えた。

 自分の器に合った感情が盛り付けられればいいと思うし、その過程は素直でいいと思う。もし変えたいと思うなら、器を変えることもできようて。

 

 世の中にはさまざまな器があり、それらが個性豊かに陳列されている。

 博覧会のような場所なのかもしれない、と思うことで、なんだか納得した感覚を持った。それでいいと、僕は思った。