野暮天堂

旅は道連れ、世は情け

折口信夫がやろうとしていたこと

折口信夫 - 日本の保守主義者 (中公新書)

 

最近、中公新書折口信夫についての本を読んでいる。

 

折口がやろうとしていたことが、自分の考えていることと近く、なんだかちょっと感激しているのだけれど、ちょっぴり残念なことも書いてあった。

 

以前、僕は「過去の人間が大事にしていた決まり事のようなものを、もう一度再構築できたら」とブログに書いた。

 

homurajin55.hatenablog.com

なんとなく、「過去の人間の生活様式」のなかに、日本人らしい道徳観や倫理観を醸成するものがあったのではないか、と考えていたのだ。

本を読むと、折口も人間の道徳意識を育てるもののひとつとして、生活文化に注目していたことがわかった。これはうれしかった。さらに折口は、文学で過去の人間の心情を描き、読者に追体験してもらうことを意識していた。これがわかったとき、「こういうのがやりたかった」と得心した。

 

ただ、本のなかでは、そもそも「日本人らしい」情緒や生活文化は、明治維新から薄れはじめ、ついに戦争が始まる前には廃れてしまった、という見識を持つ人間が、僕の生まれるずっと前にいた事実を伝えていた。『逝きし世の面影』を書いた渡辺京二も同じようなことを書いているらしい。(積ん読状態になっていて、読んでいなかった…)

 

逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)

 

羽根つきや端午の節句など、個々の文化に日本人らしさがあるのではなく、それらひとつひとつの文化が有機的に繋がり合って構成された「関係性」が、日本人らしい情緒や心情を育んでいた……。かつて小泉八雲やイザベラバードが見た日本人らしい美しさは、それを源流としており、もうここにはないかも……なんて、ちょっと哀しくなりそうなことを考えてしまいそうな内容だ。

 

戦争が始まる前の世の中でさえ、日本社会が道徳心を失っていくことを危惧する識者がいた。そして先の戦争が起こり、焼け野原になり、必死に復興。高度経済成長。バブル崩壊、デフレ……この物質化とそれに翻弄される流れのなかで、ついにかつてあったものは失われてしまったのではないか。などと、悲観的になりそうな事実だ。

 

正直、「おいおい。もしかして、どうしようもないのか」と考えたりもするのだけど、でも案外自分の心の中は楽観的だったりする。それでも、今残っているものはあるかもしれないと思うし、もしもほとんど残っていなかったとしても、再現という手段もあるかもしれない。日本人は模倣が得意ですから。過去の日本人の模倣をしてしまうのもありなのでは?と思う。

 

確実に言葉にしたり体系化して、手に取りやすい形で自覚することはできなくとも、かすかな残り香のようなものが、この国のいろんな場所にあるのではないかしら。そんなふうにも思う。

 

過去のあり方を、作品を通して伝える

 

この世界の片隅に

 

去年、『この世界の片隅に』という映画を観た。映画内容自体も素晴らしくて感動したのだが、監督はじめ制作現場の作品に向き合う姿勢そのものが素晴らしかった。できるかぎり当時の町並みを再現しようと、監督は何度も広島にロケハンに行き、方角やなんかを緻密に確認し、さらには地元の住民たちを集め、当時の話を聞くこともおこなった。

そんなふうにして、作品にのめり込むようにして作られた作品は、当時を知る人間にも、知らない人間にも、分かりやすく触れやすい形となって目の前にあらわれた。戦時中においても、飯を炊き、洗濯をし、何気なく笑い会う団欒があったということを、物語を通して、実感する。

現代に残っている資料や記憶、そういうものから過去の生活を再現することは可能だと、あの作品を観て思った。もちろん、たやすいことではないけど。

 

文化の残り香を拾う

 

民藝の教科書2 染めと織り

 

僕は、刺し子や織物、陶芸作品、民芸品のなかにある「どこか日本的なもの」に触れたとき、なんだかほっとするような感覚を覚える。それは自分が日本人だからなのか、それとも外国の方も、同じような感覚を覚えるのか分からないけど、いずれにしても、なにかがそこに確実に「ある」と感じる。

日本人が日本のものに触れて、なんだかほっとするようなあの感覚。あれはきっと、気のせいではないと思う。だから、それをきっかけにして、辿ることはできそうだと思うのだ。

 

かつて折口がやろうとしていたこと。大好きなこの土地の、大事なものを繋いでいく姿勢。それを、少しでも良いから見倣いたいと思っている。